ビューア該当ページ

五稜郭の移築計画

148 ~ 150 / 1047ページ
 四年初め、函館の五稜郭を札幌へ移築して本庁の建物とする計画があった。四年二月福原亀吉は、五稜郭の移築に関する見積書を提出している。それには運搬費が記されている。それによると、まず函館から小樽まで一三艘の船で運搬すると二万六〇〇〇両、小樽から石狩川まで九〇〇〇両、石狩川から篠路川口まで一万二四九九両、篠路河口から篠路村まで五〇〇〇両、篠路村から牧場(北七~八条東五~七丁目辺)まで一万二五〇〇両、牧場から本府まで三一一六両である。さらに運んできた材木だけでは足りないようで、材木を足して五稜郭を復元するのに二万三二六〇両である。全部の合計で九万一三七五両かかると見積っている。また福原亀吉は、五稜郭の絵図面通り新規に建築すると、七万四五〇六両であることも同時に見積っている(根室宗谷并各所雑書類 道文二九三)。新築した方がはるかに安く済むという見積である。
 五稜郭の解体作業は一月二十一日頃から始まっている(東久世日録)。引き受けたのは中川組の金子三九郎である。彼は四月と六月に、開拓使の札幌詰に函館での解体運搬費の内借や支払を要求している(明治三年同四年書類 道文三二六)。それによると一月十一日に最初の内借をしているので、五稜郭の移築は一月上旬にすでに計画されていたことになる。そうすると西村権監事たちの「札幌表御用取扱向等伺書」のなかで、判官邸の材木を本庁建築用とする伺に対して、判官邸を建築するように指令がでたのは、この五稜郭を移築する計画があったためと考えられる。
 そしてその解体した材木は六月十日には「亀田川尻并函館御米水揚場」へ運搬し終わっている。六月末には舗石・土台石などはソリ運搬が可能になったら水揚場へ引き出し庚午丸で運搬し、梁など大材以外の柱や板類は札幌へ運搬する方針であった(札幌往復 道文三五五)。その後実際に札幌まで運搬されたものか確認できなかった。しかし福原亀吉の見積が二月に出されていることから考えて、その後中止されたのではなかろうか。