移住・地所割渡しなどに関する史料である明治四年の『市中人別申出綴』(道文三一二)、『札幌区劃図』、『戸籍番号帳 全』、『地価創定請書』などを突き合わせると、『地価創定請書』にある地所の位置と『札幌区劃図』に記載されている位置と合わない場合が出てくる。また割渡し年月が実際の割渡しではなく、移住年月と思われる日付になっている例もある。例えば古山仁三郎は『地価創定請書』では、四年二月に薄野内に土地を割渡されたことになっている。しかし『札幌区劃図』では、現在の南一条東一丁目に記載されている。そして薄野の町割は早く見ても四年六月以降である。『市中人別申出綴』では四年二月二十九日が移住の届出日になっている。これらのことから『地価創定請書』の地所割渡しの日付は移住日をとっており、その後の地所の変更の際も、そのままその日付をつけられた場合があると推察できる。そうすると割渡しの日付は、後に機械的に移住届の日で整理したものである可能性もでてくる。
以上の推察を市中への移住民の家作問題と関連させて考察すると、『札幌区劃図』に記載されている人びとの中には、移住直後の状態を示していて、仮住まいのままの状態を示している人びとがいる可能性が大きくなる。実際に『札幌区劃図』では本普請と小屋とを区別して記載している。そして草小屋と推察される木挽や大工の小屋と移住民の小屋とが同様な記載方法であることを考え合わせると、市中移住民の小屋に草小屋もあった可能性が大きくなる。つまり『札幌区劃図』は、割渡された土地に家屋を建てて移動する以前の状態を示していることになる。そうであるならば、昔話にあるように、五年春になっても草小屋の仮住まいのまま家作をしない人びとがいたことも考えられる。このような場合前述のように開拓使側が脅迫的な手段に出たと考えるのは間違いとはいえない。だからといって市中の移民が住んでいた草小屋を焼き払ったという昔話は、現段階では否定できないが、近世の火付けに極刑を与えるという意識から見るとあまり考えられない。