第一 | 毎歳俸金一万弗ヲ賜ヒ、且ツ正貨或ハ証券ヲ交付スルハ、予が所望ニ任ス可シ。 |
第二 | 旅費、食料等予ガ一身ニ関係シタル者、及ビ日本政府ノ為ニ使役スル所ノ諸工人並ビニ諸物運輸等ハ、皆其費糜ヲ給与セラル可シ。 |
第三 | 余ガ身分ニ適当シタル寓所並ビニ警吏 給仕等ハ、皆之ヲ貸与セラル可シ。 |
第四 | 諸学術ニ長ジタル外国人ヲ撰ミ、予ガ補佐ニ命ゼラル可シ。而其給俸ハ大概三千弗ヨリ四千弗ノ間ニ在リ。皆予ト同様ノ法ヲ以テ之ヲ給与セラル可シ。 (開拓使日誌) |
というものであった。
森は黒田の同意の下に、ケプロンの要求条件を全て承認して、八月中(陽暦)に日本に赴任することを要件として、一八七一年五月十五日(陰暦明治四年三月二十六日)をもって発令することに決定した。黒田も、日本でいえば省の卿(大臣)に相当し、しかも現職という望外の人物の獲得を喜び、「農業工業共所長人物折角探索いたし候処、実によき都合ニテ米国第一等之先生〈カプロン〉ト申仁ト内決いたし、但当方農局ノ大統領相勤メ居申候」(高倉家所蔵文書)と、樺太開拓使詰合に報じている。
ケプロンは日本政府の発令日に至り、グラント大統領に辞意を表明した。この突然の申し出に大統領も直ちに対応しえず、後任の決定まで内密にしておくよう指示した。しかし渡航の諸準備、技術者の選考や開拓機械の発注にも当たらねばならず、ケプロンは改めて大統領に辞表を提出し、ようやく六月二十七日(陽暦)に承認を得るに至った。そして八月一日、選考したアンチセル、ワーフィールド、エルドリッジをともなってサンフランシスコを出帆、八月二十二日(陰暦七月七日)、黒田の帰朝より一足遅れて、横浜に着したのである。