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札幌二〇〇戸

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 屯田兵は殖民兵型も指定地へ挙家移住することにしたので、開拓使はその土地を定め区画し家屋を建てなければならない。その目的地として、黒田の建議書は「札幌及ヒ小樽、室蘭、函館等ノ処」をあげた。札幌は計画の段階から第一の候補地に考えられたのであり、前述の三年十一月開拓使による東京府貫属屯田兵案もまた札幌郡を移住地に予定していた。

図-1 札幌本府をとりまく屯田兵移住地

 黒田建議が政府に認められる時点で、二年間に一五〇〇戸移住を三年間に変更し、六年十二月三十日「来(きたる)七年ノ儀ハ、札幌郡へ三百戸、室蘭郡へ二百戸被相移候」よう内定をみ、札幌郡への移住準備が始まった(開拓使公文録 道文五五二七)。ところが、札幌三〇〇が二〇〇戸に、室蘭二〇〇が一〇〇戸に変更される。七年三月中頃に決まったらしく、おそらく経費圧縮のためなのだろう(同前 五七八三、五七九四)。この頃はまだ七年中に初回の移住を実現すべく準備に忙殺されたらしい。
 室蘭については一時宗谷と混同して疑義を生じたが、家屋建築の入札まで終えながら初回の予定地から削られたのは、開拓使顧問H・ケプロンの視察が最終結論に影響したようで、札幌郡ないし札幌だけが対象地として残った。ただ準備はすべての面で混乱し渋滞したため、とても七年中の移住は不可能で、よく八年移住が出来たものと感心するほどである。なお小樽はH・ケプロンが反対し、函館(渡島檜山地区)は殖民兵型の移住地として後々まで候補地を模索するがついに実現しなかった。