その後同校の入学者は急増し、開拓使は四年秋に独立の教育施設を設けることとし、六〇〇坪の敷地に校舎を建築して、資生館の名で同年十一月に開校した。当時の教員は七人、生徒数四〇余人とされている。その学則は次のとおりである。
学則
五十[日本外史輪講] 三八[皇朝史略輪講] 一六[午前孟子] 隔夜 智環啓蒙
輪講欠席ノ者ハ其罪謹慎五日タルヘキ事 自今謹慎ノ人ハ万事等外ノ振合ヲ以テ取扱候事
一 浴場沸日毎月一六ノ日惣掛之事
五十[日本外史輪講] 三八[皇朝史略輪講] 一六[午前孟子] 隔夜 智環啓蒙
輪講欠席ノ者ハ其罪謹慎五日タルヘキ事 自今謹慎ノ人ハ万事等外ノ振合ヲ以テ取扱候事
一 浴場沸日毎月一六ノ日惣掛之事
(伊達市教育委員会)
このほか、この文書綴には「当直心得」、「学館ヨリ府エ伺ニ及候文面写」および資生館規則の一部が含まれているが、このうち「伺ニ及候文面写」(正月十日付、庶務掛あて)の第一は「大学中庸論語右三部読了ラサル者ハ不許入校」、第二は「爾後入校ノ者二十二歳以上ニ限ル、但シ通学生徒ハ八歳以上年令ト読書トヲ限ラサレハ曉倖ノ競テ入学覆裁(ママ)ノ高恩反テ貧院ノ如ク相成御趣旨ニ相悖リ候様被存候」となっており、この分には「学校年限ヲ以テ折衷取捨適宜ノ処分可致事」の付札が付されている。
写真-1 資生館学則(亘理伊達家文書 伊達市教育委員会蔵)
これらからみると、同館は必ずしも初等教育施設とはいえず、むしろ幕末の士族子弟教育の系譜につらなる性格をもつものといえよう。また前記「伺ニ及候文面写」の、特に第二の意味は必ずしも明確ではない。まずこの「正月十日」が五年なのかまた六年なのかが問題となるが、五年十一月に開拓使札幌本府は、官員子弟に止まらず、市在の者も十四歳以下の初学者を同館に入学することを許可する旨布達しているから、それに対する館の対応と考えれば説明がつく。これはまた、次の札幌学校成立年とも関わる問題でもある。