九年九月、大貫宮司は
開拓使あて、神官通勤・一般参詣の困難等を理由に、「社地ヲ当市中適宜ノ場所へ換移シ、壮麗ナル社殿を建築」することを願い、計費については
円山村往還から社頭までの除草、除雪の費用一、二年分でまかなえるとした。すでに同年七月、同社経費は
開拓使定額金支弁となり、拝殿建設も前年に願い出ており、同神社としては決断の時期であった。しかし
開拓使は翌十年三月に「現今
札幌神社ノ在ル所ハ幽邃潔浄ノ地ニシテ極テ其処ヲ得タル者ナレハ」(
開拓使公文録 道文五八五九)という理由でこの願を却下した。しかしこの決定は宮司に正式に達せられなかったらしく、十年十一月、前述の昇格願と同文書中に「社地ハ其儘ニ据置、更ニ遙拝殿ヲ札幌市中ニ建設セラルヽ哉の趣相聞候ニ付」(願伺届留第一号
北海道神宮)とした上で、であれば雪中は遙拝殿で祭典を行いたい等と申し出た。
同遙拝所は十一年六月、神道事務分局と兼ねる形で建設許可をうけ、市中氏子の寄付および土地については請負業の
中川源左衛門の寄贈をうけて現在の頓宮の地(中央区南二条東三丁目)に完成した。なお、永続方法は毎年一〇〇円を「人民信仰ノ徒」より差し出すとしている(屯宮要書類綴
北海道神宮)。また十四年からはここで社務を取扱うこととなり、これが二十九年まで続いた。さらに十八年には宮司から
札幌県令あて、「遙拝所境内へ末社建設ノ儀ニ付伺」が出され、「境内へ氏子信徒ノ者ニ於テ末社等建設ノ砌ハ、御庁へ御届ニ止リ」云々(願伺届留三
北海道神宮)と伺った。区民の中にこのような動きのあったことを示すものといえよう。
写真-3 官幣小社札幌神社遥拝所(札幌繁栄図録)