七年八月二十八日、曹洞宗の北海道教導受持として来道していた少教正西有穆山は、開拓使あて「宗費ヲ以テ御庁下ニ小教院一宇取置衆庶ヲ教導致度、且見込モ有之候ニ付、一万坪程」(開拓使公文録 道文五八一二)の地所下付を願い出、翌二十九日「千歳通勇払道」(現南二条西九丁目辺)に一万坪貸与の許可をうけた。これをふまえて同年十二月二十五日、曹洞宗管長から教部省あて小教院設立の願い出があり、翌八年一月十二日付で許可された。これは前述のように、七年六月に来道、小教院設立につとめた河井順之の動きとなんらかの関連があったのではないかと思われる。同年十一月に河井より開拓使に提出された各郡小教院設置地所中にこれが含まれていないのは、すでに設立の動きがかなり進行していたからとも考えられる。なお、貸与地一万坪については翌八年八月に問題となり、改めて一六〇〇坪下渡しの申請が提出された。
同小教院は八年九月に中教院昇格を教部省に願い出、同月二十八日付で許可された(寺院教導書類 道文二四七八)。さらに翌九年一月、曹洞宗管長から教部省あて、当地は植民地で本宗寺院がなく、「同院詰教導職之内へ葬祭依頼之向モ有之候へ共、是迨教院ニ於テ葬祭取扱之成規無之ヲ以テ、詰合之者一般相断置候処、人民甚失望の趣」(開拓使公文録 道文五八三四)のため、人民の依頼によって葬儀を取扱いたい旨願い出た。これに対して教部省は同月「右は異例ニハ候得共、元来該地之儀ハ寺院稀少、内地一般ニ難見做事情モ可有之」として許可した。ついで同年春に仮教場を建設し、さらに翌十年四月、同院詰より同院を曹洞宗の教会条例に基づいて総教会とし「所轄内各寺檀越信徒一般結社仕度」(寺院教導書類 道文二四七八)と願い出て許された。十二年中に本堂等が完成し、また十四年八月には中教院を曹洞宗務支局と改称した。