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札幌への進出

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 クラークの伝道が行われた明治九~十年は、プロテスタント諸教派の合同運動が一頓挫した後の時期に当たっている。十年十月、長老派・改革派が合同して日本基督一致教会(のちの日本基督教会)が設立され、教会合同のもう一方の当事者であった関西の公会は、翌十一年、日本基督伝道会社(のちの日本組合基督教会)を設立し、教派による伝道活動が本格化した。
 北海道では、前述のとおり十年頃までにプロテスタントの二派、カトリック、正教会が拠点を持った。函館で盛んとなったこれらの教派の活動に対して、開拓使函館支庁の取締が禁教高札の撤去後も続けられた。W・デニングに説教をさせて街頭を混雑させたという理由で小川淳を逮捕したことは前にも述べたが、同じような理由でM・C・ハリスに説教をさせた和田音次郎を逮捕した。さらにキリスト教式による埋葬事件では、八年までに山中琴路小笠原定吉など四件が起きている。それが、クラークの来札した九年以降、キリスト教式埋葬問題で罰金を科した例はあっても、逮捕に及ぶ事件はみられない。九年は、キリスト教に対する開拓使の態度にも変化がみられた年であった。
 クラークの伝道によって、キリスト教をめぐる環境も変わってきた。以後十年代、函館に拠点をもった各派は、函館に次いで札幌を新たな伝道の対象として進出した。もっとも、この時期に進出した教派の成果は、間もなく、札幌基督教会(現・札幌独立キリスト教会)の設立によってこれに吸収されてしまう。プロテスタント諸教派の教会設立は、次編の二十年代を待たなければならない。
 なお右に挙げた教派のほかに、十年代の後半、宣教師や日本人牧師の来礼があいついだ。例えば十六年、札幌基督教会を応援して洗礼式を執行した日本基督一致教会小川義綏、D・タムソン、療養で来礼したS・C・スミス(アメリカ長老教会伝道協会派遣婦人宣教師、北星女学校を創立)などである。