ビューア該当ページ

合同教会設立への気運

442 ~ 444 / 1047ページ
 札幌農学校一・二期生は、在学中クラークの伝道の志を継いだマサチューセッツ農科大学出身の教授たちによって信仰的な指導を受け、ときにはハリスやデヴィソン、デニングらの説教を聞いた。ハリスは、明治十二年頃の様子を「これらの青年は、甚だ熱心のやうに見ゆる。彼等よりの文通によれば、彼等学業の余暇には、校外の児童に聖書を教へ、又毎週祈禱会を催し、そして彼等のすべては、公けに祈禱するであらう。安息日となれば、祈禱と聖書の研究の為めに会合す。その時にはホエーラル教授、聖書を教ゆ……これらの青年は良家の子弟なれば、将来日本の若き教会の為めに有益のものたるや疑なし」(山鹿旗之進 落葉のかきよせ(五)ハリス監督の逸事)とミッション本部に報告している。
 もっとも、この頃までには一期生の受洗者のなかに信仰上の脱落者が生じ、二期生では内村鑑三ら八人以外には洗礼を受けた者がなく、三・四期の入学生のなかには入信した者はまったく現れなかった。一・二期生の激しい伝道攻勢があってか、十一年一月頃、官立の農学校に「耶蘇宗(ヤソシュウ)(キリスト教)が流行し、生徒が帰依している」という新聞投書があったらしい。開拓使札幌本庁ではホイーラー教頭に生徒間の宗旨問題の葛藤に注意を促している。また佐藤昌介も、開拓使の官吏から信仰上の感情を隠すように言われたとクラークに報じている(北大百年史 札幌農学校史料(一)・佐藤昌彦ほか編訳 クラークの手紙)。
 しかし、このような圧迫があっても、前述のように一・二期生以外にも札幌の信徒は増加していった。一期生は十三年に卒業したが、この頃から一・二期生は、自分たちの会堂を持つ希望を募らせていた。十四年、彼らは会堂取得のための具体的な行動を起こし、三月にはデヴィソンから約七〇〇円の援助金を借用した。彼らの大部分はメソヂスト監督教会員であったが、彼らのめざした新しい教会は教派に依存しない独立の教会であった。
 彼らは札幌に二つの教派の教会が並立することを疑問とし、教派の競合は福音(キリスト教)の宣教を妨げるものとして把えた。その結果、外国のミッションからの援助を受けず、しかも日本人に合った儀式や規則を持つ教会の設立をめざした。聖書にない儀式を排除し、「神の慈愛による独立した教会を札幌に立てたい」(一八八一年五月二十五日付W・S・クラークあて内田瀞書翰―クラークの手紙―)、という願いが彼らの大勢を占めるに至った。九月には南二条西六丁目に開拓使が建てた白ペンキ塗りの洋館「白官邸」の一つを購入することが出来た。

写真-10 明治16年の札幌基督教会員(札幌独立キリスト教会蔵)