こうして、十月二日、一・二期生と伊藤・平野両家の人びとら二〇人は両教会に退会を申出、白官邸での教会生活を始めた(佐藤昌介は退会に同調しなかった)。これがのちの札幌基督教会である。そのうちの一人、宮部金吾は、この日が事実上の教会創立の日であると言っている(宮部金吾 札幌独立基督教会創立当時の状況)。もっとも、この時点では、自他ともに認める正式な名称がまだなかったと思われる。十四年十月には、青年活動を盛んにするために札幌基督教青年会(YMCA)が組織された。
「白官邸の教会」においては、大島正健、渡瀬寅次郎、伊藤一隆、内村鑑三らが交代で日曜日の礼拝説教に当たった。専任の教職を求めて、東京の植村正久(一致教会牧師、のちに日本基督教会の指導者)の招聘を打診したこともあり、植村も一時札幌行に心を動かしたこともあったという。
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写真-11 内村鑑三 |
教会自立に向かっては他にも課題があった。とくに教会の維持費とメソヂスト監督教会伝道局への返済金の捻出に苦闘しなければならなかった。おりしも十二月にクラークから一〇九ドル八八セントの送金があって、教会員を感激させた。十五年一月一日日曜日の午後、教会の前途を相談している最中に、函館のデヴィソンからの書翰が到来した。内容は彼らの退会申出に対するもので、内村鑑三がその直後に書いて宮部金吾に送った書翰の要約によると、「正月元旦そうそう、われわれはデヴィソン氏から、出来るなら、教会建設資金を、いくらかでも、電報為替で返すようとの通告を受けた。氏の冷たい意味深長な手紙は、われわれの教会のやり方に賛成しかねる、との短い言葉で結ばれていた」(一八八二年一月二十日付 内村鑑三日記書簡全集第五巻)というものであった。デヴィソンとしては教会の独立(教派からの分離)には反対で、もしそれを貫くのであれば援助は出来ないという教派の立場に立ったものであろう。
デヴィソンの書翰は、受取った札幌の教会員を強く刺激するものがあり、すぐさま残金全額返済の意志を固めることになった。教会員はそれぞれの生活や書籍代を切りつめて献金し、あるいは会堂の二階に住み込み会堂の管理に働いたうえ、その部屋代を教会に払うなどして積立て、この年十二月二十八日に負債の残金を返済した。この日を同教会は創立記念日と定めた。メソヂスト監督教会は翌十六年二月二十八日、彼らの退会を正式に承認した。