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新会堂建築と牧師按手礼問題

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 札幌基督教会は、教派によらず信徒が自由に結合して設立した教会であった。二派の信徒が合同して設立した経緯から、同教会は外部からはサッポロ・ユニオン・チャーチ(札幌合同教会)とよばれることがあった。若い人びとが中心となって設立された無教派の教会は、周囲からその将来が危惧されていた反面、札幌唯一のプロテスタント教会であったことから、プロテスタント諸教派の協力を得やすいものとした。教会独立後、かつての一・二期生の信徒のうち、十五~十六年に、内村鑑三佐藤昌介新渡戸(太田)稲造広井勇らが札幌を離れた。その一方、札幌へ転入してくる他教会員、新たに洗礼を受けた信徒らを加えて、教会は発展していった。このため十五年五月には大島正健が母校の教師をしつつ牧師となり、九月には一致教会の辻元全二が専任の伝道師として大島を補佐した。十六年七月には婦人会が結成され、編み物や裁縫などの手間賃仕事を得て教会の経済を助けた。十七年、教会員の数は約六〇人になった。このため「白官邸の会堂」は狭隘となり、はやくも新たな会堂の建築を計画することになった。

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写真-12 大島正健

 翌十八年、新会堂は南三条西六丁目一番地に、教会員藤田九三郎の設計によって竣工し、八月八日、献堂式を挙げた。会堂の東側にニセアカシヤの並木があったので、「アカシヤの教会」とよばれた。
 この時期の最後に、牧師職をめぐって札幌基督教会が解決を迫られる問題が起こった。教会から牧師として任命されていた大島正健は、牧師としての按手礼(あんしゅれい)を受けていなかった。従って当時のプロテスタント教会の大勢では、無資格者には二大聖礼典である洗礼式と聖餐(晩餐)式を執行する権能がないとされていた。このため札幌基督教会では、来札する諸教派の牧師・宣教師に依頼し、これを執行してきた。ところが同教会は十九年一月の臨時総会で、大島に洗礼式と晩餐式を司どることを委託し、翌二十年四月実行に移した。このため諸教派のなかから、無資格者の聖礼典執行に疑義が呈された。なかには札幌基督教会を異端視する批判も出された。
 二十年夏、クラークを通じて「札幌バンド」の将来に関心を持っていた一人、新島襄(同志社の創立者、日本組合基督教会の指導者)が療養のため札幌に滞在した。新島は札幌基督教会の「自由主義」を支持する立場から事態を案じ、大島正健に按手礼の受領と、死亡した辻元伝道師の後任として、同志社出身の馬場(竹内)種太郎を推薦した。新島の斡旋によって教会は在京の牧師・宣教師に按手礼を依頼した。これによって二十一年一月十二日、一番町教会で植村正久小崎弘道ら在京七牧師が、大島の頭に手を置いて按手礼を執行し、彼の牧師職を公認した。