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写真-12 大島正健 |
翌十八年、新会堂は南三条西六丁目一番地に、教会員藤田九三郎の設計によって竣工し、八月八日、献堂式を挙げた。会堂の東側にニセアカシヤの並木があったので、「アカシヤの教会」とよばれた。
この時期の最後に、牧師職をめぐって札幌基督教会が解決を迫られる問題が起こった。教会から牧師として任命されていた大島正健は、牧師としての按手礼(あんしゅれい)を受けていなかった。従って当時のプロテスタント教会の大勢では、無資格者には二大聖礼典である洗礼式と聖餐(晩餐)式を執行する権能がないとされていた。このため札幌基督教会では、来札する諸教派の牧師・宣教師に依頼し、これを執行してきた。ところが同教会は十九年一月の臨時総会で、大島に洗礼式と晩餐式を司どることを委託し、翌二十年四月実行に移した。このため諸教派のなかから、無資格者の聖礼典執行に疑義が呈された。なかには札幌基督教会を異端視する批判も出された。
二十年夏、クラークを通じて「札幌バンド」の将来に関心を持っていた一人、新島襄(同志社の創立者、日本組合基督教会の指導者)が療養のため札幌に滞在した。新島は札幌基督教会の「自由主義」を支持する立場から事態を案じ、大島正健に按手礼の受領と、死亡した辻元伝道師の後任として、同志社出身の馬場(竹内)種太郎を推薦した。新島の斡旋によって教会は在京の牧師・宣教師に按手礼を依頼した。これによって二十一年一月十二日、一番町教会で植村正久・小崎弘道ら在京七牧師が、大島の頭に手を置いて按手礼を執行し、彼の牧師職を公認した。