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福岡県士族と開墾社

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 開墾社は福岡県の移住士族を福本誠が組織したものである。福本は士族が無産無職で窮乏している状況を憂い、(一)北海道の開拓と開発、(二)士族への就産、(三)「北門の鎖鑰」の北方警備をもとに、北海道への士族移住を計画した。福本は浅香竜起と共に十三年に来道し諸所の視察を行う。九月二十八日に札幌に入り周辺を調査した結果、石狩郡生振と当別郡高岡を入植適地と定めた。福本は両地に一五〇万坪五〇戸分の割渡しを仮出願し、移住開墾規則・移住開墾書を提出して十月二十六日に離札している。福本の本道における行程は『北門時事』にまとめられているが、滞札中は連夜にわたり薄野遊廓に通い、彼の計画がどの程度真摯なものであったのか疑われる点がある。事実、開墾社は不幸な結末をみるが、それも福本に帰せられる点が多い。
 先の両地はすでに出願が出されていたために、十四年六月に今度は篠路村に四〇〇万坪一五〇戸分が出願され、開拓使の残務取扱委員では移住戸数に応じて割渡すことにしたが、いよいよ入植地の決定をみたので開墾社では移住の準備に着手する。
 まず移住の資金について当初の移住開墾規則では、旧主黒田長溥(ながひろ)へ全資金を依存するようであったが、後の改訂規則ではこれを「金六万ヲ官符ヨリ拝借シ、之ヲ移住開墾一切ノ資金トス」(福岡県移民取裁録 札幌学院大学)と訂正している。いずれも自己資金を有さず、一方的に旧主あるいは「官府」をあてこむ、きわめてルーズな計画であった。しかし福岡県庁の斡旋もあり、十五年四月十五日に六〇戸分一万二〇〇〇円の資金貸与が農商務省より認められた。同省が移住団体にこの種の資金貸与をおこなったのは開墾社が唯一の例である。それだけ同省でも士族授産策として開墾社の成功に期待するところが大であったといえる。
 次に組織をみると、開墾社は社長福本誠以下幹事、書記などがおかれた。社員も十四年十一月の名簿には首唱の委員を含め士族六四人、平民四人の六八人を数えていた。福岡県では当時、一万五七〇〇戸余の士族がおり、多くの士族が秩禄公債も手離し窮乏し、養蚕、製糸、織物、炭鉱、製紙などの授産会社も設立されていたが、士族救済の実効をあげるには至っていない状況であった。それゆえ士族層の北海道移住にかけるものも大きかったはずである。