このころの移住者は福岡・山口・広島・徳島県など西日本からの移住が主流をしめていた。月寒村厚別(現清田)へ入地した岡山県の移住者も西日本からであった。
岡山県からの移住者は、岡山県児島郡、岡山区(現岡山市)などの出身者二六人からなり、岡山区の五人の士族を除きあとは平民であった。この移民については、「岡山県移民厚別移住景況取調」(市史 第七巻三二一頁)にやや詳しく述べられている。それによるとこの移民は、東京製錬場社長岡久曹が組織したものであった。岡久曹の郷里が児島郡小川村(現倉敷市)で、ここは「従来過半漁業ヲ以テ産業ハ致居候処、近年ニ到リ漁獲稍減少セシニ依リ各自永久ノ産業ニ困ム」という状況であった。そこで十三年に岡久曹は親族一人を本道に派遣し、「確乎不抜ノ産業」を北海道開墾に求めた。この結果厚別を適地と定め、十五年七月に二三戸(人員二五人)が岡久曹の経費負担により移住したのである。
岡山県移民の送籍関係の史料(戸籍関係書類他 札幌学院大学)をみると、送籍では二六戸六二人分が記されている。先の取調に、「一戸ヨリ壮健者一名或ハ二名移住シ、先ツ当地開墾ノ進歩ニ随ヒ漸次全戸渡航見込ニ有之」といわれており、最終的には二六戸(六二人)が移住するはずであったようである。ただし小川村の出身者は四戸(九人)と少ない。
岡山県移民はすべての費用を岡久曹に依存したが、彼の代理であった岡本祥一が十六年四月に上京し送金などが途絶えると解散に追い込まれ、十七年九月にはわずか四戸が残るのみとなっていた(市史 第七巻三二七頁)。他の人びとはみな出稼ぎに出、移民は離散の状態となったのである。残った四戸も間もなく離村したとみられ、岡山県移民は直接、清田の開墾先駆者として名を残すことはなかった。
愛育社は養育者のいない児童を保護する施設として大野唯四郎が社長となり、兵庫県氷上郡下竹田村(現市島町)につくられ、大阪にも施設を設けていた。十四年六月八日に、施設の経営・維持と児童成長後の授産のために、雁来村に二カ所二三万坪の地所割渡しを出願した。この年に五戸一五人が移住し、のちに一二戸三八人も移住する予定であった(愛育社取裁録 道文三九〇四)。送籍者をみると、開墾事務長となった土倉一郎ほか四人は、兵庫県や京都府の旧丹波国の出身者であった。
愛育社の農場は十五年五月の豊平川洪水の被害を受け、「川原ノ如シ、故ニ植物繁茂スルヲ見ス」(市史 第七巻三一〇頁)といわれている。さらに十六年十一月には、「開業ノ際二十余戸アリシモ資本ノ乏シキハ社長ト農民トノ間ニ紛議ヲ生シ、各自諸方ニ乱散シ本年ハ僅三、四戸」とされていた(同前三一四頁)。早くから離散をみたようで、岡山県移民と共に移住は失敗に終わっている。