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「開かれた」街と住民

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 札幌の住民構成は、前述したごとくさまざまな出身地から寄り集まっており、したがって風俗・習慣も異なった合成集団を核としているところに特色があった。そのために、社会秩序維持の方法として何らかの措置がとられねばならなかった。まず明治五年七月、札幌市中へ九カ条からなる取締項目が布達された。その内容は、荷担商人による往来の妨げの禁止、邏卒の設置と乱暴人の申出、通行の妨げとなる積み物の禁止、小荷駄の制限と取扱、裸体の禁止、人家建込場所での花火等禁止、酔っぱらいの市中放歌暴行の禁止、往来や川堀へ不浄の品や塵芥投棄の禁止等で、これらに違犯する者は捕えたり罰するというものであった。
 五年冬、一人の旅行者が札幌を訪れた。彼は開府直後に一度札幌を訪れたことがあり、わずかの間に「開かれた」街をみて次のように記している。
市街縦横整置恰モ碁局ノ如ク道路ハ平坦ニシテ曲折ナク其幅最広キハ三十間ニ及ヘリ而テ大約東西十四丁余南北二十町許(中略)其開成ノ速ナルニ驚キ疇昔ヲ追思シテ謂ラク今ヨリ数年ノ後ハ幾多ノ繁華ヲ為シ一大都会ノ地ト為ルモ知ル可カラス
(開拓使公文録 道文五七二七)

 このように一旅行者をして言わしめた当時の札幌も、市中の建造物で目ぼしいのは官衙や諸施設で、一般の工商の住宅は勾配のゆるい石置き屋根の貧弱なものであった。九年九月、黒田長官が家屋改良の諭告を出し、欧米をモデルに家屋構造を防寒に適した建築構造に改良するよう指導を強めたのもこのためである。
 木造ではあるが、洋式建造物のシンボル・開拓使本庁舎が竣工したのは六年のことである。一般庶民に縦覧を許し、その洋式建築の壮大さで圧倒させた。その一方、庶民がたびをび火災をおこすことから、市中に対して火の元用心を達している。それと同時に、同年中には市中へ塵芥取捨場を七カ所設置して、川や道路等への投棄を禁止した(開拓使布令録)。しかし、塵芥投棄は改まるどころか実際は、「道路ニ獣骨毛皮ヲ投棄シ塵芥ヲ不掃」る状況であったので、翌七年四月「各自親シク注意居宅前通り入念掃除シ不潔不相成様精々可心懸」しと布達を出した(同前)。開拓使が清潔な街づくりをめざそうとしたのには、六年頃から天然痘や麻疹の流行があり、一般庶民の健康を害するような環境をとりのぞかねば、札幌市街の発展や村の開墾さえおぼつかなかったからである。
 十年三月に開拓使は、札幌市中と小樽郡若宮町より高島郡手宮村に限り「違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)」を施行した。この軽犯罪への刑罰法令は五九カ条からなり、裁判を必要とせずに警察が刑罰を科すことができるものであった。取締りの対象は、第一に風俗に関するもので、春画・入墨・裸体などの箇条である。第二には衛生に関するもので、贋造の飲食物や腐敗したり病死した牛馬禽獣の販売、川堀下水への土芥瓦礫の投棄、毒薬等による魚鳥の捕獲、往還路傍上での大小便、禽獣・汚穢物の往来への投棄などがあがっている。第三には道路交通についてのもので、馬や馬車の早駆け、通行禁止区域への侵入、往来に蔬菜を植えたり妨害となるものを置くことである。第四には公共道徳に関するもので、掲示場の破壊、神社仏閣の器物破損や落書き、往来の号札や人家番号名札看板の破損、往来街灯や並木等の破損、墳墓等の破損などである。第五には外国人に関するもので、許可なく外国人を宿泊させることである。このほか、他人の稼ぎを妨害すること、許可なき場所に家作をつくること、喧嘩口論や人の自由を妨げることなどがあげられている(同前)。開拓使にとってこの「違式註違条例」は、外人顧問を多く雇い北海道開拓の諸政策を遂行していたことから、これら外人顧問の眼を強く意識していたと思われる。それゆえに、札幌市中に布達する必要があった。しかし、これら上からの取締りが強化されてもどれだけの効果があったか詳細は不明である。