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授産事業

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 開拓使では、まずアイヌの生活を独立させることを理想とし、農業・漁業・狩猟などの奨励、援助を通じて生活の安定をはかった。そのうち農業については、四年十月、土地の開墾を希望するアイヌには家屋および農具を与えることを達し、さらに進んでは農具・種子を給与し、農業指導者を派遣して実地に農業法を教えることとした。実際札幌では、十一年作成の『地価創定請書』(道文二五〇三)によると、発寒村居住の木杣卯七、発寒小紋太、能登岩次郎、伴六、多気安爾、規也里の六人に九年六月時点に耕地として二三〇〇坪から三七〇〇坪が割渡されているのが確認される。墾成年を明治七年以前としていることから農業奨励の第一号であろうか。
 しかし、アイヌの土地所有に関しては何らまだ明確にされてはおらず、五年九月の「地所規則」では、アイヌが従来漁猟・伐木に使用してきた土地であっても、深山幽谷でない限り、一般に私有を許す旨を明らかにしていたので、アイヌの漁猟区域を無視する結果になった。このため、この規則がアイヌの生活を脅かす場合の措置を考えねばならなかった。このことを懸念して制定されたのが、十年十二月の「北海道地券発行条例」であり、これによりアイヌの居住地は官有地に一旦編入され、徐々に私有権を与えることにした。
 伝統的な狩猟・漁撈においても札幌の場合、川漁の制限や「鹿猟規則」の制定により、次第にその範囲が狭められていった。七年八月には、発寒・琴似・篠路の三河川の鮭漁引網・ウライ網が禁止となり、豊平川といえども夜中引網一切禁止とし昼間のみとした。しかし、それも九年五月にウライ網を禁止し、アイヌのみマレップ(鉤取り)漁を許可してきたが、十一年には種川での禁止が加えられていった。また「鹿猟規則」では、アイヌのみ仕掛弓を許可してきたが、それさえも九年九月以降禁止となり、代わりに猟銃を貸与し鹿皮の二割を納めさせることとした。