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「同化」政策

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 開拓使は、アイヌの人々を封建的束縛から解放し、明治国家の構成員に組み込むために、新しい環境に適応した生活を営めるようにすることを早急な課題とした。そのため、すでに幕府直轄時において行ってきた「同化」政策を、漸次徹底させる方向に出た。明治四年十月十四日、開拓使アイヌ首長を集めて同月八日付の布達を読み上げ、さらに請書を差し出させた。
    指出申御請書之事
開墾致候者ヘハ農家農具等御下付相成候ニ付テハ是迄ノ如ク死亡之者有之共居宅を自焼シ或ハ他所へ相転候等之儀ハ堅く相禁可申事
口脣を刺し手背ニ文ノ儀自今出生之者ハ堅く相禁可申事
耳ニ鐶を入候義ハ只今より男土人ハ相禁可申女子ハ今暫御用捨之事
漁事相済次第土人御雇相成候ニ付入用品御貸付相成返納之義ハ御雇貸銭并獣皮魚類等ニて上納之事
文字之儀も漁業之間ニハ習候様可能致事但和語共同断之事
右被仰渡之趣一同承知奉畏候依之御請書指上申所如件
 明治四年辛未十月
  開墾御役所

(布令類聚)


 この時札幌に呼び集められたアイヌは、発寒小使エワヲフテ、中川乙名トシハアヒ、同セツカウシ、発寒乙名コモンタ、石狩乙名サフテアエヌ、琴似乙名マタエツ、札幌乙名エコレキナの七人であった(公務摘要日誌 東京都岩村家)。しかし、このようなアイヌの風俗を「陋習」と判断し、一方的に風俗の和風化と農耕民化、さらに日本語・日本文字の使用の奨励等をおこなったので、アイヌの抵抗を少なからず受けた。このため九年の布達では、「自今万一犯禁ノ者有之候ハ、不得已厳重ノ処分可及」と、処罰も有り得ることさえほのめかした(布令類聚)。
 ことにアイヌの旧慣を改めるには、教育をもって普及していこうといった考えは、すでに三年九月の庶務規則の中にもみられる。そこでは、「土人男女教育ノ義ハ新ニ手習所ヲ択ヒ御用間出張ノ上精々世話致シ毎日一飯ツヽ為取可申事」(開拓使布令録)と手習所を設ける方法が考えられていた。
 しかし、開拓使以降のこれらの一連のアイヌへの「同化」政策は、三十二年公布の「北海道旧土人保護法」で集大成されていくのだが、アイヌ自身に選択肢を残さなかったばかりか、きわめて一方的・急進的な政策であったがためにアイヌの人びとの生活に少なからぬ混乱を与え、さらに新たな「差別」にも直面せざるを得なくさせた。