開拓使の農業を中心とした授産事業は、当初の意図とはかけはなれた結果をもたらした。離農者が相次ぎ、多くが漁業のために石狩河ロへ移転した。このような状況の上に、樺太アイヌの生活破綻を一層強めたのが伝染病の流行である。十二年に対雁アイヌだけでも患者七四人、うち三〇人の死者(高畑家文書によると患者五四人中死者一九人とある)をもたらしたコレラは、十九年再び大流行し、おりからの天然痘の流行と重なって、総人口約八〇〇人のうちこの年だけで三〇〇人を超す犠牲者を出す大惨害をもたらした。このような病魔の直撃は対雁での生活を一層不安にし、対雁を去るきっかけを作り、ひいては樺太への出稼というコースをたどる導火線となった。二十五年以降、唯一の頼みの綱であった漁業も連年不漁となり、このため樺太への出稼者を続出させた。以後出稼者は増加の一途をたどり、三十三年には一三四戸、二四八人が石狩に残るのみであった(北海道殖民状況報文 石狩国)。実際の数字はさらに少ないとみなければならない。残る人びとも日露戦争の結果、三十八年に樺太南半が日本領になると、翌年十月までに漁場雇の名儀でまたたく間に帰還してしまった(アイヌ政策史)。こうして、樺太アイヌの対雁を中心とした石狩地方における約三〇年にわたる生活は、開拓使以後のアイヌ問題を露呈するものであった。