十九世紀はじめ天然痘(疱瘡)が石狩場所のアイヌの人びとの間に大流行し、犠牲者を多く出したことはすでに述べた(市史 第一巻第三編第六章)。天然痘に対する最良の方策である種痘は、旧幕府時代すでに箱館奉行の手によって実施されていたが、開拓使下の札幌でも三年札幌仮病院で種痘を初めて行った。五年九月二十九日には、市在役人宛に市在人民を対象に「毎月二七ノ日第十二字より二字迄ノ間黴毒院ニおゐて種痘」を実施するので願い出るよう達しているのに、いまだ出願者がいないのはどういうわけか取調べるようにといった文書さえ出している。また、市中役人に命じて未接種者の呼出しを命じている(市在諸達留 北大図)。同年十一月には、札幌本庁が各郡病院規則を定め、さらに地方官吏をして、管内人民一般に対し天然痘に対しては種痘が最良の法であることを説諭してその偏見を取除くよう述べている。
札幌では、六年二月篠路村に天然痘が流行し死者を出したことから、札幌病院では種痘未接種者の取調べに力を入れた(取裁録 道文六八六)。その後他府県で天然痘が流行したため、八年三月開拓使は「天然痘予防規則」を制定し、種痘の徹底につとめた。この規則のなかで、小児出生後七〇日より満一年を種痘の好期とし、以後七年ごとに再三接種することのほかに一般人民の心得として、天然痘を防止するには種痘接種することや伝染防止のためのこまかな注意を呼びかけるとともに、「無稽ノ陋説ヲ固執シ他ノ種痘ヲ拒マシムル者ハ詮議ノ上屹度相当ノ処分申付ヘシ」(布令類聚)と強制力を持たしめた。実際、六年の天然痘流行時には開拓使吏員が札幌神社発行の天然痘除守札をアイヌの人びとに下渡すことも行われたからである(細大日誌)。
種痘者の数は次第に増加し、九年一月から六月までに札幌病院で種痘を受けた者は一八一人にのぼり、その結果全員が「善感」であったと報告された(開拓使公文録 道文五八二八)。
十一年二月札幌本庁は、初度再三度の感染・未感染の毎戸人員を調査させ、十四年二月には病院規則を改正し種痘者住所ごとにさらに調査を徹底して種痘録に注記させ、半年ごとに種痘表を作成することにした。また同年五月、「種痘医規則」を定め、種痘期間を七年であったのを五年あるいは七年ごとと変更した(開拓使事業報告)。