ビューア該当ページ

札幌新聞の廃刊

603 ~ 603 / 1047ページ
 順調に刊行されていたこの新聞は、翌十四年一月二十九日付で休刊届を提出し、三月二十日付で復刊届を出している(出版及新聞紙等ニ関スル書類 道文三七九八)。しかし石川正蔵の『公私諸向日誌簿』には同年二月四日の項に「新聞休刊届之義ヲ三吉君へ依頼スル」とあって若干食い違っているし、この間も一、二号程度は発刊したようである。そして三月二十三日付で「新聞無代印刷之義六月迄月延願ヲ差出ス」とあり、この頃から編集人の沢口とのうちあわせが日誌に頻出する。これは記事が讒謗律に関係した分もあるが、無代価等の問題もあったのではないかと思われる。この願は四月六日付で却下され、石川は六月二十八日付で廃刊届を提出した。号数は四五号であった。
 なお石川が無代価印刷延長願を提出したとほぼ同じ頃の十四年三月三十一日付で、佐藤孝郷の名で「新聞発行願」が提出された。紙名を『北海道新聞』とし、毎月三回刊行する計画であった。この願は五月二十日付で許可されたが、同年十一月五日付で発刊廃止届が提出され、計画は沙汰止みとなった。当時の札幌に二つの新聞が併存できるわけもなく、また札幌新聞発刊・刊行の諸事情も併せ考えると、開拓使がなんらかの理由、例えば札幌新聞編集の方針に関わる問題で、これを廃して新たな新聞の刊行を企図したということも考えられる。さらに『北海道新聞』の発刊廃止届の提出される直前の十四年十月十九日付で、持主清水初太郎、編集兼印刷人菊田廉三郎の名で、『北海新聞』の発行願が提出された。清水は同年二月刊行の『開拓使各庁職員録』の出版人となっており、開拓使及び印刷と関係の深い人物の可能性も考えられる。