十八年六月には農商務卿西郷従道と内務卿山県有朋が連署して、北海道殖民興産の建議をしている(河野常吉 北海道史料 三県一局時代 甲)。これは開拓使によって北海道開拓の基礎が定められたにもかかわらず、「現今ノ景況ヲ察スルニ全道事業ノ進歩或ハ遅緩ニ属スルノ恐アリ、今ニ於テ之カ匡済ノ途ヲ講セサレハ他日大ニ衰態ヲ来スアラン」と憂慮して建議に及んだものである。ところでその進歩が遅緩に属するに至った所以は、「夫レ他ナシ、廃使以後ハ全道ノ気脈貫通ノ便ヲ失ヒ、支離分岐遂ニ今日ノ衰運ヲ呈スルニ至」ったことにあり、また事業管理局にあっては「主管ノ事タル廃使以前経営セシ事業ノ維持ニ止マリ、範囲狭隘ニシテ完全ナル能ハス」、また県治においては「原野曠漠人煙稀少未開ノ地方ニ在テハ其施政モ亦自ラ簡便ニ出ツヘキハ自然ノ理勢ニシテ、必スシモ一概ニ内地一般ノ制度ニ拠ル能ハサル者アリ」と、状況を無視した府県制の適用を批判している。そしてここに「因テ按スルニ管理局ヲ廃シ殖民地方ニ適当ナル一種ノ制度ヲ設ケ、更ニ殖民局ヲ置キ全島帰一ノ方略ヲ持シ、三県施治ノ順序ヲ定メ、殖民興産ニ関スルモノハ皆其統轄ニ属セシムル」ところの、新しい制度・機構の確立を唱導しているのである。
この両卿建議に対して廟議は容易に決せず、ここに政府はまずその地を精査し、県治の実況を明らかにし、もって変革するところを考慮しようとして、七月九日太政官大書記官の金子堅太郎に北海道巡検を命じたのである(明治天皇紀 第六)。
金子は七月二十二日に東京を発して十月二日帰京する間、東は千島から北は宗谷および利尻・礼文に至り、その拓地・殖民・興産の状を査察して「北海道三県巡視復命書」(新撰北海道史 第六巻)を提出した。この復命書は多岐詳細をきわめるが、三県一局制の現況に関しては、まず県と事業管理局との関係が円滑を欠き、政令二途に出て、政策方針も齟齬し、またその施策も重複するなど、常に協力一致せざる状況を述べ、ついで県治と管理局のそれぞれについて、機構・制度・施策・事業等の諸方面にわたり、一つ一つ具体例を示しながら、精緻かつ論理的にそれぞれの矛盾と欠陥を指摘している。そして「県庁ハ、専ラ内地ノ制度ニ模傚スルニ汲々シ、又開拓使ノ農工事業ヲ継続シタル管理局ハ、徒ニ従来ノ事務ヲ維持スルニ止リ、両ナガラ拓地殖民ノ急務ヲ計画スルコト能ハズ、空ク日子ト費用トヲ費シテ、其為ス所ハ相睥睨シ、相頡頏スルニ過ギズ。之ヲ奚何ゾ、自今数十年ノ星霜ヲ経過スルモ、北海道開拓ノ大事業ハ、決シテ期ス可カラザルナリ」と評論し、さらにその対処として「今日ノ計タル政府ハ、断然一大改革ヲ行ヒ、県庁及ビ管理局ヲ廃止シ殖民局ヲ設立シ、欧米ノ殖民論ニ基キ、事業ニ着手スル所ノ順序ヲ定メ、務メテ外形ノ虚飾ヲ省キ、拓地殖民ノ急務ヲ実行スルニ在リ」と結論づけているのである。
以上の諸建議を通観すると、北海道の開拓と統治に関し、基本的に三県一局制は適合していないとの認識は共通している。ただその障害を胚胎させる主たる機構として、安場は各省直轄の事業は是としながらも三県制を指摘し、西郷・山県は三県制は容認しつつも事業管理局を問題とし、そして金子は三県一局の分治そのものを全面的に否定するものであった。岩村の場合は事業管理局設置以前の意見であるが、民政と事業の一元的管轄を意図しているものと考えられる。ところでこれらの論者が、期せずして再び一致していることは、三県一局制に代わるべき一つの機構として、すべてが「殖民局」を挙げていることであった。