道庁設置と同日の十九年一月二十六日に内閣達をもって北海道庁官制が制定された。翌二十七日には内閣の中に北海道庁事務取調所を設置しているが(同年七月十二日閉鎖)、二月二十二日に北海道庁事務分課を定めて、新体制に素早い対応を見せている。ただ、事務分課には「当分ノ内」とか「仮定」という表現が用いられており(公文類聚 官職門)、暫定的なものであった。
この官制ならびに事務分課により設置当初の道庁組織をみると、職員として、長官(勅任)、理事官(奏任)、属(判任)、それに警察官、郡区官、監獄官、技術官、学務官が配されている。「北海道拓地殖民ニ関スル一切ノ事務ヲ総判」する長官と、「事ヲ長官ニ受ケ各其主務ヲ幹理」する理事官のもとに、本庁分課は、長官附(理事官四人、長官に専属)、庶務課(課長は理事官)、租税課(課長は会計課長兼任)、勧業課(課長は理事官)、土木課(課長は理事官)、会計課(課長は理事官)、それに警察本署(警部長・警部)、集治監(典獄・副典獄・書記・看守長)、岩礦鉄道事務所(所長・副長は理事官)、紋鼈製糖所(所長は理事官)、農学校(校長・幹事・教授・助教)であった。また函館・根室に設けられた支庁の官制は、支庁長・次長・属・警察官であり、またその分課は庶務課・租税課・勧業課・会計課(各課長とも判任)と警察本署であった。以上の組織をもって、十九年三月一日に北海道庁は開庁したのである。
この初期機構は先にふれたように暫定的なものであり、また拡張されていた三県一局の事務・事業の一切を、一挙に引継ぐ立場にあったためか、その機構自体は三県一局の各機関を単に一つにまとめた形に過ぎず、大きな変化は見られない。それのみならず函館と根室に置かれた支庁には、支庁長として旧県令の時任と湯地がそのまま再任されていた。さらに十九年七月の『官員録』を見ると、北海道庁の理事官として、時任為基・湯地定基・鈴木大亮・堀基・橋口文蔵・堀金峯・佐藤秀顕・小野修一郎・村田堤・細川碧・藤田九万・広田千秋・青江秀・唐崎恭三・浅羽靖の一五人が就任しているが、この中で前歴において開拓使・三県に全く関係していないのは、小野・藤田・青江の三人に過ぎなかった。金子が北海道の政務の最大の障害としていた旧開拓使官僚を、払拭しえずに道庁はスタートしたのである。
その後中央政府の各省官制(十九年二月二十七日)、それに地方官官制(同年七月二十日)がそれぞれ布告されているが、それらに準じて十九年十二月二十八日勅令をもって全面改正の北海道庁官制が公布された(法令全書)。この官制によって本来の道庁機構が形成されたといえる。ここで長官は、勅任一等相当で、「内閣総理大臣ノ指揮監督に属シ」て、「北海道ノ拓地殖民及警察ニ関スル一切ノ事務ヲ統理」し、および「屯田兵開墾授産ノ事ヲ監督」するものとされ、また理事官は一〇人の奏任で「長官ノ命ヲ承ケ各其主務ヲ管理」するものであった。道庁の事務は第一部より第四部の四部制で分掌され、理事官をもって部長および部次長(部長あれば置かざることあり)とした。いまこの四部の下に二十年五月九日制定の庁令によって置かれた分課を示すと左の通りである。
第一部(庶務課・郡治課・警保課・職員課・記録課・教育課)
第二部(農商課・地理課・逓信課)
第三部(土木課・営繕課)
第四部(検査課・出納課・公債課・用度課・租税課)
またこの改正によって函館・根室の両支庁は廃止され、同時に外交事務処理のために北海道庁函館出張所を置いた。
ところで、この官制に見られる北海道庁は、地方官官制に規定されている一般府県と異なった特徴を有していた。その第一に道庁長官は内閣総理大臣の指揮監督に属するのに対し、府県知事は内務大臣のそれに属し、第二は道庁長官の勅任一等相当に対し、府県知事は勅任二等または奏任一等相当(東京府知事のみ勅任一等となしうる)である。第三に道庁長官に法律・勅令・閣令・省令等で北海道に施行し難いものに対する異議の上申権を認めているが、府県知事には一切認めていない。第四に道庁で奏任官を配せるのは理事官一〇人であるのに対し、府県は書記二人、第五に道庁における郡区長の警察署長兼務の特別制度、第六に事務分掌として道庁の四部制に対する府県の二部制、などの差異がみられる。これらのことは府県知事の職掌が単に「部内ノ行政及警察ノ事務ヲ総理」することにあったのに対し、道庁長官は上記のように拓地殖民と警察の事務の統理、屯田兵開墾授産の事を監督するという、植民地の拓殖と行政を職掌とし、また政府もそれを国家的事業と認識していたことを前提とする権限と規模の拡大であったと考えられる。