しかしながらこの道庁の特異性も、明治二十年代に繰返される道庁官制の改正によって、縮小あるいは希薄化されていく。その主な改正点をあげていくと、まず二十二年二月二日事務分掌中の第三部は第二部に合併吸収されて三部制となった。
ついで二十三年七月七日の道庁官制の全面改正は大きな意味をもっていた。すなわち道庁は内閣総理大臣から内務大臣の指揮監督下に移管され、長官の勅任一等は単に勅任相当となり、さらに長官が有していた法令に対する異議上申権は削除された。また奏任の理事官一〇人は三人と減員されたが、新たに「長官ノ諮詢ニ応シ意見ヲ具へ及審議立案ヲ掌ル」参事官二人が置かれた(この参事官は二十三年十一月の地方官官制の改正により府県にも置く)。このようにこの官制改正により、長官の職掌は変わらないのであるが、権限と規模は大幅に減殺されてほぼ府県並みとなったのである。
二十四年七月二十七日の道庁官制改正では、地方官官制の改正(二十三年十月、知事官房の新設、従来の一・二・収税の三部制を内務・警察の二部制へ、それに直税・間税・監獄の三署の設置)に照応して、長官官房の設置、旧第一・二部を合併して内務部とし、警察部の独立、第三部を財務部、監獄署の新置と、再編改称して三部一署制とした。
日清戦争による台湾領有を契機に、政府は外地(植民地)の統治機関として拓殖務省を二十九年三月三十一日に設置したが、台湾と共に北海道もこの省の所轄となった。ただ翌三十年九月一日に同省は廃されたので、再び内務省管下に復されている。
三十年十一月二日に四度目の道庁官制の全面改正がなされた。この官制による機構が以降の道庁機構の原型となったといえる。ここで置かれた北海道庁の職員は、長官(一人・勅任)、事務官(理事官を改称、専任五人で一人勅任他は奏任)、警部長(一人・奏任で警察部長)、支庁長(一九支庁各一人・奏任)、参事官(三人・奏任)、警視(二人・奏任)、典獄(一人・奏任)、技師(二四人)、属・警部・監獄書記・看守長・監獄医(合計七七一人・判任)、翻訳生(二人・判任)、技手(一三六人)をもって構成され、定員総計は九六五人であった。また事務分掌の各部に、三十年十一月二十七日の道庁訓令による分課を併記すると、
長官官房(秘書課・文書課)
内務部(地方課・教育課・庶務課)
殖民部(拓殖課・農商課・水産課・逓信課)
財務部(監査課・経理課・司計課・収入課・調度課)
警察部(高等警察課・警務課・保安課)
鉄道部(監理課・建設課・計理課・倉庫課・運輸課・工務課・汽車課)
土木部(土木課・林務課)
監獄署(第一課・第二課・第三課・医務所)
以上、一房・六部・一署・三〇課・一所である。右のうち殖民部は内務部より分かれて三十年四月十四日に置かれ、鉄道部は二十九年五月八日に設けた臨時北海道鉄道敷設部を継承発展させた部である。
発足時の道庁は他府県に比し、その行政において大きな特性を有していた。それは広大未開の植民地拓殖という職掌が付与されていたからである。しかしその特性も、上述したように二十三年七月の道庁官制改正以来希薄となり、一般府県並みに平準化していく傾向を示していた。それは政府が目指した集権的統一的地方行政の把握に即応し、また困窮化する国家財政の要請に基づくものであったと考えられる。しかし他方での本道の植民地観とまたその開発事業は忘却されたわけではなかった。官制に明示されている長官職掌の、北海道の拓地殖民の統理ならびに屯田兵開墾授産の監督の事項は一貫して継続されているし、また一時外地統治のため設けられた拓殖務省への移管もその表われであろう。のみならず、道庁機構からみると、明治三十年前後よりその植民地開発の施策は強化されたといえる。
二十六年十月改正の地方官官制によって、府県の事務分掌は一房(知事官房)・三部(内務・警察・収税)・一署(監獄)とされ、これは明治期より大正期にかけて基本的に変化はない。道庁も二十四年以降、一房(長官官房)・三部(内務・警察・財務)・一署(監獄)と、府県と全く同一であったが、三十年に入り上記の如くに一房・六部・一署と拡張され、それに伴い職員数も五割以上も増大している。特に府県に設置をみないのは殖民・鉄道・土木の三部で、これらは一にかかって植民地開発の推進を担うものといえる。北海道は三十年前後を契機に再び開発の新しい胎動を引き起こしていったと見られるのである。