このように市街は順次周辺へ拡大していったが、決して順調ではなかった。
二十年代前半の市街大下水工事、原野大排水工事、炭鉱鉄道工事などで好況期があって、札幌は発展した。『北海道毎日新聞』に投稿した天真子は「札幌盛衰論」(北海道毎日新聞 明治二十七年五月二十九日付)で、この時代のことを「贅沢時代」とよんでいる。ところがそれらの工事が順次竣工し、道庁の経費も削減された。その結果札幌は不況に陥り、札幌市街では空家が目立ってきた。それに加え二十五年五月に起こった大火のため一時的に市街地は破壊され、札幌の発展は阻害された。しかし二十年代後半は、北海道鉄道の建設、月寒への師団建設、札幌・銭函間運河の開削工事などが相次いで起こり好況期を迎えた。その時期札幌では貸家が不足し、一棟に数家族が住むという状態になっていた。当然家賃は高騰した(北海道毎日新聞)。その結果二十年に人口一万三〇〇〇人余・戸数三〇〇〇戸余であったものが、一〇年後の三十年には人口三万五〇〇〇人余・戸数六〇〇〇戸余に急増した。また人口・戸数を見るかぎり、二十年代半ば頃の不況期も、戸数で二十五年・二十八年の一割強の減少、人口で二十八年に三〇〇人ほどの減少が確認できるが、二十年代を通してみると増加の傾向が継続していた(北海道戸口表)。そして札幌は、自治制が認められる区制の時代を迎えることになった。