二十年代を通じて、札幌は市街地域が周辺域へ拡大し人口が急増していった。そしてその発展を支えたのは、明確な都市計画はないが、前述のような都市建設の方向性が北海道庁(札幌支庁)、札幌区役所、市民や新聞などに共通の理解としてあったためではなかろうか。そしてその後の札幌の都市建設構想は、これらの方向性がそれなりに継続されて発展したため、整然とした碁盤の目状の街並を周辺域へ拡大する方向で構想されてきたのではなかろうか。
一方周辺村落も、開拓使時代のお雇い外国人の構想を受け継いだと思われる区画方式で開拓を進めてきたため、同様な碁盤の目の形態であった。したがって都市札幌が周辺町村を含み込んでいくときも、河川等の地形的事情で碁盤の目状の形態をとれないところ、基線の方向が異なったために起こった接触点での不整合などを除き、大きな形状変換を強制しなくても現在の形状に発展しえたのである。