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開拓使時代の払下工場

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 開拓使官営工場の設置は開拓の速成に兼ね、移住民生活の安定と道内生産の拡充を計ることにあった。したがって設置された工場は庶民生活の万般にわたっており、民間において生産可能の見込みがある時は工場の払下げを行っている。
 政府が関係各省及び開拓使に対し、官営工場払下概則を達し、「工場勧誘ノ為政府ニ於テ設置シタル諸工場ハ、其組織整備シテ当初目算ノ事業漸ク挙カルニ従ヒ、官庁ノ所有ヲ解テ之ヲ人民ノ営ニ帰スヘキ」(布令類聚)としたのは、明治十三年(一八八〇)十一月のことであるが、開拓使はこれより先、開拓初期の不況から立ち直った十一年に二、三の工場をそれぞれ民間に払下げた。すなわち既述のように篠路の味噌醤油醸造場は沢口永将に、札幌に設けた第一味噌醤油製造所対馬嘉三郎に、馬具製造所は職工の黒柳喜三郎に、なお札幌農学校雇の靴工岩井信六には製靴所を、洋服工の島田兼吉には製作器具、被服資材等をそれぞれ月賦で払下げ、市内で営業を行わせた。これらは家内工業的なもので、販売先も市内外の商業者・消費者向けで、営業も容易であったからである。
 なお十三年七月には札幌製油所を建物、機械器具等一切を代価一七八三円九七銭、三カ年賦上納の約で当時非職になっていた堀基に払下げた。十八年六月、札幌県統治下、札幌第二の味噌醤油製造所森弥市に払下げられたことは既述の通りである。