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(6)札幌紡織場(製糸部)

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 二十年九月足立民治は二十一年九月より向こう三年間無料貸下げを受け、三年間に二二二一円六七銭四厘を補給して事業を継続させた。繭の買入価格を毎年群馬、福島、山形及び横浜の生糸相場を標準とし、道庁の認可を得て定めることとしていた。二十一年十月今井藤七と共同で三万円の資本金で、土地建物合わせて代価六九二三円五九銭即納をもって払下げをうけた。二十一年営業の概況は、生糸製造高一九八四斤余、屑糸五八九斤余、真綿三三貫二五〇匁、生糸販売高一一五五斤余、その代価六五八〇円余であった。生糸は横浜に送って販売し、その他は製造地の需要に供している(北海道庁第二、三回勧業年報)。
 なお製糸業については二十三年五月、小林和三郎が信州から進出し、桑園の地北三条西一三丁目に座繰による小林絹糸製糸所を設立している。製品は絹糸、ミシン糸、真綿などであった。
 この時期、府県では器械製糸が優位になり、二十七年には座繰製糸の生産高を凌ぎ、伸長して北海道への本州よりの繭の取引が拡大してくる。三十三年足立民治経営の札幌製糸所が火災にあって器械製糸工場が廃絶していたとき、道庁は器械製糸の設備・生産に補助金を交付し斯業の振興をはかるてとになり、器械を施設する工場が現われてきた(風雪八十五年の歩み)。