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種川の設定と鮭・鱒の保護

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 近世にはイシカリ一三場所として鮭・鱒などの豊漁でにぎわった札幌も、石狩川下流域での乱獲、河川流路の変化、アイヌの人びとの減少などの諸原因により、幕末の安政年間頃からまったく漁業もふるわなくなってくる。明治に入っても、三年の網持出稼人は上サツホロの三太郎、サツホロ奥の八右衛門のほか、石狩役所直営のハラトウライ(十二月に廃止し一般に開放)、アイヌ持とされたサツポロフトがあるのみで(市史第一巻八〇〇頁)、多くの漁場が衰退していた。
 一方、開拓使では鮭の保護と増殖にのりだし、豊平・発寒・琴似・篠路川における鮭漁の引網を禁止していた。またウライも禁止しており、大規模な乱獲を防止していた。六年十月三日にいったん諸川の引網漁を許可したが、翌七年八月二十九日には豊平川を除き再び禁止し、種川に指定して鮭の保護政策をとるようになる。十一年十二月十七日に至り、「札幌郡内諸川ニ鮭鱒漁獲一切差止」(布令類聚 上編)とし、これにより豊平川も含め札幌郡内での捕獲はすべて禁止されることになった。