篠路村は幕末に開拓に着手され、諸村でも最も開かれたところであったが、低湿地や泥炭地が多く、石狩川の洪水不安もあって開拓の進展は遅れていた。しかし二十年代にいたり篠路屯田の設置、興産社・堀(のちの前田農場)・山田・中野などの大規模農場の開設により著しい発展をみせてきた。
村内諸地域の戸数をみると、本村は二四〇戸、兵村二二〇戸、茨戸七五戸、山口開墾四三戸、当別太一七四戸、中野開墾九二戸、合計八四四戸となっている(札幌郡調)。茨戸には前田、山口開墾には佐藤(もと山田)、当別太には興産社の農場があり、本村・兵村部以外は農場を中心に開拓が進展していた。また当別太の福移には旧開墾社の福岡県士族の開墾地があり、ここには二十六年に六三戸、六百余人が居住しており、分教場の設置も計画されている(道毎日 二十六年三月三十一日付)。
三十三年の調査によると篠路村には荒物商一七人、酒類商五人、小間物商二人、魚類商二人、鶏卵商三人、古物商四人、質屋一人、売薬商二人、理髪商一人、菓子商一人、開業医二人、産婆三人、大工四人、木挽二人の商人・職人などがいた(札幌郡調)。これらは主に本村に店を構え市街を形成していたようだ。鮭・鱒を主に捕獲する漁業者も一一一人おり、鮭は八統、鱒は二統の曳網を張っていたという。
このように諸村の発展がこの時期には著しく、札幌の都市形成と緊密に結び付いた農村形成が行われていった。