三十三年頃の調査と思われる『札幌郡調』(北大図)によると、篠路兵村の項に大根栽培は「当兵村最も特有」のものと評価し、さらに札幌市街へ販売し、篠路大根として「大いに声価を博せり」という。それに対し新琴似村については、大根は三十年以降多くなり、五町歩を作付するものもいて、さらに作付面積は増加しているという。販売先はやはり札幌市街である。そして従前大根は篠路屯田の特産であったと評しているので、三十三、四年頃に評価の逆転があった可能性がある。昔話では、三十一年大水害のために篠路と新琴似の大根の評価は逆転したという。確かに『北海之殖産』(一〇〇号)の水害表によると、篠路兵村の被害は耕作面積七〇〇町歩のうち浸水面積五七〇町歩、無収穫面積四五〇町歩とあり、かなりの被害が出たようである。しかしこの年の水害だけがきっかけで篠路大根が新琴似大根に席を譲ったとは考えにくい。特に三十一年の水害だけで篠路での大根栽培が不可能になったとは考えにくいため、この頃を境に篠路屯田は水田化が進行し、それにかわって新琴似は大根栽培が盛んになってきたという農業経営の画期だったのではないだろうか。