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募兵

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 後期屯田兵を招募するために、十八年二月から三月にかけて北海道と沖縄県を除く全国で、応募の意向をもつ者の調査を行った。各府県から出てきたその数を集計すると四〇〇〇人(戸)をこえている。調査にあたって屯田兵制の内容を説明した志願者心得書を作成配布するが、後の移住者心得につながる配慮だったとはいえ、国からの給与面を強調するあまり、応募者にやや安易な夢をいだかせなかったとはいいきれない。そしてこの調査は県庁の手になる関心度をさぐる世論調査的性格もあったから、四〇〇〇人がすぐに移住可能ではなかった。
 ともかく、後期屯田兵の招募はこの数から出発した。調査数をよりどころに、北海道と沖縄県を除く全国の士族を対象にして、十八年は江別、篠津、野幌へ入地、十九年から根室市の東西和田兵村開設に取りかかり、翌二十年、いよいよ新琴似兵村と室蘭市輪西兵村開設にいたるのである。屯田兵本部は陸軍省に両兵村への招募を各県へ達すべく、次の申進を提出した。
 申第卅六号
    屯田兵徴募之義ニ付申口
 明治廿年徴募スヘキ屯田兵人員幷ニ各県ノ割合、去ル十八年五月中、申第廿二号ヲ以、上申仕置候通リニテ、福岡県外九県ヨリ、二百五十六戸、札幌室蘭ノ両郡へ移住為致候ニ付、各県へ御達相成度、別紙御達案幷ニ徴募手続相添此段申進候也
   明治十九年九月十七日
(竹内運平ノート 屯田兵関係史料)

 この案による招募計画は札幌(すなわち新琴似兵村)へ一四六人(戸)を、室蘭(輪西兵村)へ一一〇人、計二五六人を予定し、県別に割り当てた。内訳は次のとおりである。
  〈新琴似分〉               〈輪西分〉
  福岡県  三七戸  熊本県  一四戸   兵庫県  一六戸
  佐賀県  四七戸  宮崎県   五戸   愛媛県  四三
  長
崎県  一七戸  岡山県  一〇戸   鳥取県  五一戸
  鹿児島県 一六戸     計一四六戸      計一一〇戸

 これが九月三十日をもって福岡県など一〇県に陸軍大臣名で達せられ、各県庁を窓口として招募受付が進められ、屯田兵本部から寺田貞一、富田貞賢等が出張して資格審査を行い移住者を決めた。
 二十年招募の計画と実績を対照してみると、熊本、福岡両県で計画より実績が上まわり、佐賀、長崎、鹿児島、宮崎で下まわった。岡山は同数である。その中でも長崎、宮崎両県では応募者ゼロと大きく予想がくるい、これをカバーしたのが熊本県での多数の志願だった。この時点での熊本、福岡県の動向が注目されよう。新琴似分一四六人の計画と実績の差は三四人なので、招募手続はなかなか容易な仕事ではなかったことをうかがわせている。この年の招募者は屯田兵本部が用意した汽船日の出丸で日本海を北上、室蘭港に寄って輸西兵村入地者を下ろし、小樽港に二十年五月十九日着、一泊して翌二十日汽車で琴似駅に向かい、琴似駅からは徒歩で新琴似兵村に到着したのである。
表-1 明治20年 招募の計画と実績
招募県計画実績増減
新琴似分福岡37人44人 7人 
佐賀47 40 -7 
長崎17  0 -17 
鹿児島16 11 -5 
熊本14 41  27 
宮崎 5  0 -5 
岡山10 10  0 
小 計146 146 
輪西分兵庫16 16 
愛媛43 43 
鳥取51 51 
小 計110 110 
合 計256 256 
計画数は『竹内運平ノート』、実績の内新琴似分は『新琴似兵村史』、輪西分は『新室蘭市史』による。

 翌年、新琴似への二年次分募兵が行われ、九州からは一年次にひきつづき佐賀、福岡両県から応募があったほか、大分県を重点県にしたのが特徴で、この年は四国へ招募を広げた。二年次募兵七四人は二十一年五月二十五日田子の浦丸(兵庫丸で函館まで来て定期船に乗り換えた)で小樽港着、翌二十六日新琴似に到着した。さらに二十二年は篠路兵村への募兵が続き、招募重点地が四国、中国、中部、北陸に移っていく。篠路入地者についてみれば、新琴似同様熊本が多く、徳島、山口、和歌山、石川、福井の各県に広がっている。二十二年七月十四日相模丸で小樽港着、翌十五日篠路兵村に到着し、ここに札幌四兵村への入地は完了したのである。