こうした屯田兵の歴史の中から後に〝屯田兵魂〟と呼ぶ生活規範倫理観が生まれてきた。前にふれたように上原轍三郎はこれを団体的精神と呼んだが、「睦じく共同生活を為し、困苦を共にして滅私奉公、其の部落の発達を図るといふことの屯田兵魂を仕込んだ」(山田勝伴 開拓使最初の屯田兵)という。貧しさ、苦しみに耐え、質素倹約を生活信条とし、私的な利益よりも共同の福利をめざし、個人の快楽を犠牲にしても公益の増進をはかり、家にあっては父母を敬い、外に出れば上官の命を重んじ、堅忍不抜の兵村をつくり上げる弛まぬ努力を、屯田兵の亀鑑とする。
こうした生活観は一朝にして生まれるはずがなく、現実の兵村にこうした精神が満ちあふれていたとも思えない。琴似、山鼻兵村発足以来の試行錯誤の中から、こうした方向が収斂され、帝国憲法下にいたって家族教令がこれを文章にして示し、その後の期待される屯田兵像になっていったのであろう。兵村の中から団体規制より個人の権利や自由を尊重する者や反戦論を掲げる者が生まれるのは、屯田兵魂で兵村が固まっていなかったことを物語り、解隊後の定着率の低さは浸透の限界を明確にしている。
屯田兵魂という言葉やその意味内容は、後日の歴史的評価の中で形をあらわす。特に北海道の〝開拓精神〟が問題にされると、その具体例として屯田兵魂を位置づける必要が生じたからである。開拓精神という言葉は榎本守恵によると昭和初期北海道第二期拓殖計画の中から〝拓殖精神〟として顔を出し、これは「より行政的技術的効果を目的としていた。しかし、市町村の整備と見合う市町村是・経済更生運動のなかで、道民性論議を媒介に、国家使命を担う開拓精神として、やがて独自的な屯田魂を中核とすることで国家政策への積極的参加の道を開いたのであった」(北海道開拓精神の形成)という。昭和十年代に満蒙開拓が叫ばれ屯田兵制の再評価が求められると、魂・精神は独立して新たな国家施策の推進力に転化していった。今日使われる〝屯田兵魂〟という言葉や前述の意味内容は、むしろこの時期に生まれ変わったものといえよう。