十二年に招魂碑が落成してから、招魂祭は屯田本部の主催で挙行されていた。二十七年の祭典終了後、これを区民によって行う議が起こり、二十八年七月に招魂祭執行協議会を開催し、主催の引継を行って委員を選定、さらに札幌区の祭典とすることを決議した。ついで札幌招魂例祭事務所を設け、祭典執行、余興等の計画、寄付金の募集を行った。寄付金は七月二十五日で八六〇円に達し、三十日には当日の協議のため委員会の招集が報じられている。しかし新聞は八月二~三日の祭典日を含めてその前後が欠けているため詳細は不明であるが、翌二十九年八月四日付の『北海道毎日新聞』によれば、二十八年は区民を祭主として三七柱の霊を合祀したという。
二十九年については、神式の祭儀のあと各宗寺院連合の上法要を行うこととし、寺院側でその順序を定めた。八月二日挙行の本祭は一二〇〇円余の寄付を集め、日清戦争の戦死者等四三柱の霊を合祀し、中島遊園地で神式、ついで仏式で執行された。当日は餅まきがあり、踊屋台が出、相撲、撃剣も行われ、札幌神社祭につぐ盛況であったといわれる。
この招魂祭の区民主催は他都市に前例もあるが、同時に日清戦争のもたらした時代相の一つといえよう。またこの祭典の内容の細部は、区民の信仰心と関連して第四節で記述する。