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札幌市民の宗教的関心

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 一方、札幌にはまた、キリスト教の宣教にとって独自の困難さがあった。二十四年の『札幌繁昌記』には、
宗教は仏法四宗あり耶蘇教(やそけふ)四種あり、互に鎬(しのぎ)を削(けづ)って普教(ふけふ)を謀(はか)るものゝ如く移民の増加(ぞうか)するに従ひ双方(さうほう)とも漸次隆盛(りうせい)に趣くの傾向(けいかう)あれとも浮屠(ふと)其住職(ちうしょく)未た人を得す婬聞醜行(いんぶんしうかう)道路に普(あま)ねく識者(しきしゃ)尤も之れを厭ふ、耶蘇また孜々(しゝ)として善(ぜん)をなし而して微瑕(びか)なきを保せす、蓋し当代の仏耶(ふつや)ともに未だ社会の道徳(だうとく)を維持し人間の心事を涵養(かんやう)するに足らざるものなり、別に神教(しんけふ)数派あれとも勢微弱(びじゃく)にして振(ふる)はす徒(いたづ)らに布施米(ふせまい)に帰依(きえ)するのみ

と、新開地の宗教事情を伝えている。ここでは、仏教もキリスト教も市民の気風を変えて、人心を育てるところまでの力は持っていないと分析され、新開地の活気と宗教心とは両立し難いものとして観察されている。『札幌沿革史』(明治三十年刊)でも、「新開地は徳義の念薄く、宗教に冷淡なり」として、一獲千金を夢見、目先の利益を追い求める風潮が強いと札幌の気風を批評している。ちなみに二十二、三年頃、札幌基督教会、カトリック、正教会の三教会の日曜礼拝に集う人数は、おおよそ二〇〇人前後と推定される。これは当時、札幌区内人口の〇・七パーセント強に当たっている。全国的な信徒数の割合(プロテスタントだけの教会員数では全国人口の〇・一パーセント未満)よりははるかに高いとはいえ、まだ微々たる人数であった。
 ただ、キリスト教徒は禁酒会運動、青年・婦人運動また災害救済運動などを通じて社会的な影響力を持ちつつあった。札幌ではキリスト教徒に対する組織的な迫害は少なかったといってよい。教会は小さな団体であったとはいえ、建設草創期の札幌の中では早くから市民に根を下ろした団体の一つとして存在していた。他都市のように、社寺と比較して教会が格別後発の宗教というわけではなかった。またスミス女学校(北星女学校)の設立にみるように、北海道庁や市内の有力者の支持を受けていたこともキリスト教、なかでもプロテスタントの札幌宣教を有利にした。