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プロテスタント諸教会の教勢回復

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 セルギイはまた、プロテスタントの諸会堂を目撃している。そのなかで最も印象が強かったのは、「鶏会堂」を建てた札幌日本基督教会であったようである。また聖公会がいまだ小さな規模であること、札幌基督教会がかつての盛況からいまは衰微していることにふれている。もっともこのころプロテスタント諸教会は不振からようやく脱し、教勢の回復上昇に向かいつつあった。
 札幌日本基督教会は、前述のとおり三十年に清水久次郎を牧師に迎え教勢を上げつつあった。三十二年には、『福音新報』に「春以来、日曜日礼拝の集会者は余程増加せり、殊に未信者の来る者常に三分の一若くは半数を占む」と報じられた。そして、「社会が無意識の中に霊的饑渇を感し来ることは歴々として看るべし」(同第一九五号)と、市民のキリスト教に対する関心の回復を予感している。
 セルギイがほとんど定期集会が持たれていないとみた札幌聖公会も、三十年ころ、日本人教役者や婦人宣教師(A・M・ヒウス)が定住し、主日の朝礼拝は平均一五人ないし三〇人ほどが出席していた。三十二年には、
教況日にまし宜しき方(かた)にて毎日曜の集り四、五十名乃至七十名とす。日曜の集会は午前午後及び夜の三回にして、夜は未信者のためにす。近来青年間に求道者多く、商人も多く集まる。日曜学校も好況の方にて生徒大概三十名内外なり。福音の門戸は到る所に開けし如くなるも役者の不足なるは遺憾なり
(福音新報 第一九八号)

と、教勢は徐々に上昇し、集会出席者の幅も広がりつつあった。
 札幌基督教会は、三十一年に牧師四方素が辞任した。また、山北孜が伝道師として一年間在任し、同年九月から中江汪が再び教務主任として教会の責任を担った。セルギイの眼には「真の指導者を持たず、何か不安定な存在である」(北海道巡回記)と映ったのは、一連の教役者の交代を指しているのかも知れない。しかし中江の就任によって、「次第に教勢を挽回し、今や再び昔日の盛況を呈せんとしつゝありて、毎回の礼拝には四十名近くの出席あり、殊に青年の求道者多きは甚だ喜ぶべき事なり」(北海教報第一七号 明治三十二年五月)とし、また婦人会も活動が盛んになっていると報じられた。同教会は三十三年二月の臨時総会で、名称を従来も非公式に使用していた「札幌独立基督教会」に改称することを議決した。
 札幌美以教会は、三十一年に三谷雅之助を牧師に迎えてから体制を整え、翌三十二年には札幌農学校の教師高杉栄次郎が定住伝道師となり、またこのころ、山鼻にも講義所を開設した。札幌組合基督教会も三十年、アメリカン・ボード派遣の婦人宣教師A・ドーデーを迎え婦人・青年活動を盛んにした。同三十二年、二度目の会堂移転を行い、北一条西三丁目に新会堂を建てた。しかし、これを仮会堂として本格的な会堂の建築を将来に期した。
 カトリック教会や正教会との交流はなかったが、プロテスタント諸教会間では各教会を会場とした聯合祈禱会を開催するなど、五教会はたびたび協同して集会を計画した。とくに三十一年、福音同盟会が派遣した宮川経輝(大阪基督教会牧師)による伝道は、札幌ではプロテスタント五教会や札幌基督教青年会が推進した。同年十一月十三日の日曜礼拝は、札幌基督教会堂で五教会合同で行い、三〇〇余人の出席があった。また、三日間五回の公開集会では、のべ千三、四百人の聴衆を得た。最後の晩餐会で宮川は、「今日の盛況は、二十三年以来始めて見る所なり」(福音新報第一八一号)と述べた。
 宮川が述べた「明治二十三年以来」というのは、一〇年にわたるキリスト教の不振の時代をさしている。彼はいま不振の時代が払拭されつつあると見た。全国的な教勢の回復に札幌の教勢も同調していた。その気運を最大に盛り上げたのは、全国的に展開した二十世紀大挙伝道であった。札幌でも三十三年十二月十四日、各教会が連合して「十九世紀感謝演説会」を開催し、続いて大挙伝道のための聯合祈禱会を開催して準備を進めた(福音新報 第二八九号)。