慶応四年(一八六八)三月にいわゆる「神仏分離令」が布告され、以後の宗教行政はこれを基本に推進された。しかし長い間にわたって継続された民衆の神仏混清の信仰心は、法令にしたがってただちに変化するものでないことはいうまでもない。ここでは若干の事例を『北海道毎日新聞』によって紹介する。
まず二十二年十二月一日、「伊達安房守成実公の祭礼式」が琴似村で行われた。内容は亘理伊達家の祖成実(明治十二年武早智雄命として祀られる)の分霊を同村日登寺境内に祀っていたのを、「今回旧臣諸子相謀りて他へ一社を建築」し、祭礼式をあげたものである。すなわち数百人の参詣者整列のうちに「日登寺副(ママ)住職渡辺海深氏神体入社式を行はせ(中略)牧野清作氏(発起者)は渡辺氏に代り一同へ神酒玉串を頒ち」(十二月六日付)とあって、従来の経緯はあるものの、日登寺住職が、基本的には神式によって式を主催していることがみてとれる。
また三十年には前述のように多くの無願の神祠が公認申請を行ったが、発寒村では顔役二人が独断で「村社を設立せんとて村内に正一位発寒稲荷大明神と神仏混交勝手放題の名称を付したるものを祭り、之が認可を其筋へ出願」したところ、永続資本、氏子名簿等が欠けるなど認可の条件が整っておらず、差し戻されたことから村民に事情が知れて混乱がおきた。新聞は「右両人が斯しても神仏混交の村社設立を出願せんとするには、何にか心に読む経ありての事ならめと云ふ」(三十年三月九日付)と結んでいる。
この記事のうち両人が祭りとあるのは、安政四年創立と伝えられる稲荷社(現発寒神社)のことであろう。本章一節に記したように、二十九年秋から官が推進した公認神社創出方針は、当然同村にも達せられたはずである。しかし在来の信仰心に加えて、情報の極めて乏しい当時の村落にあっては、官の意志を十分受け止めることが出来ず、素朴な信仰心に基づいた公認申請を行ったと考えるのが妥当であろう。「何にか心に読む経ありて」との解釈は、都市生活者でかつ一応の知識人である新聞記者のものであり、当時の開拓農民のそれとはかなりに異なっていたといえよう。
最後に、必ずしも混淆とはいえないが、二十九年八月に区民主催で執行された招魂例祭についてふれてみたい。同例祭については七月中に神式ののち仏式で法要を営むという決定がなされ、これに基づいて仏教側の委員が順序を決定した。当日はまず神官が入場し、「祓を為」し、白野札幌神社宮司が祭祀戦死者八〇人の官位姓名を読み上げ、「神饌十数種を神前に提供し」ついで白野宮司が「祭文を朗読」して式を終えた。ついで祭典委員長が「焼香」、屯田司令官、道庁長官らが「焼香」、さらに委員・遺族ほかが「焼香」を行い、ついで僧侶が入場し、代表が「祭文」を読み上げ、ついで読経に入るとはじめて「遺族の人々は潜かに飲泣の声を漏し、絞りも合へぬ袖の下打ち湿りてぞ見えたり」という描写となる。ここではまず神仏二つの儀式が継続執行されるというほかに、僧侶入場前に「焼香」が行われていることなど、神式及び仏式とされながらその境界が不分明なことなど、やはり主催者側の神仏混淆的な心情をみることができよう。そして、神仏分離の政策にもかかわらず、当時としてはやはりこれが一般住民の自然な信仰心であったといえよう。