明治二十年代末になると、北海道の男女の人口比率の上から「男多女少」現象を憂える論が出てくる。
二十九年、『北門新報』に同社主筆の伊東山華(正三)が「北海道と女性」といった論稿を四回にわたって掲載した。伊東は、北海道の開拓を成し遂げるには、男のみでなく男女一対で行われなければならぬとの考えから、次のように説く。「拓地植民とは何ぞや、新土に植民をして茲に家を作るにあらずや、然らば即ち北海道拓地植民をして男女双栖其処を得せしめ、以て其土着永住の観念を養成せしむるは是れ本道拓殖の一大事業」と、土着永住の観念を養成することこそ拓殖の一大事業とあげる。さらに、当時の北海道の男女の人口比率が極端に「男多女少」の理由として、近世において蝦夷地内への和人女性の通行が禁止されていたこと、開拓使以来「遊廓先駆主義」をとってきたこと等を掲げ、「男多女少」のままにしておくことは、永住土着の観念が養われず、「朝集暮散」をくり返すばかりで、拓殖の基礎となるべき「家庭」が作られないと。そして、近年「男多女少」の傾向が改善されるどころか、娼妓や私娼の流行や売買婚を生じさせ、かつ私生児の増加、女尊男卑の風さえ招いていることを憂えてやまない。当時の新聞には事実、女性が少ないがためにこれらの弊害があらわれていることがくり返し報じられ、なかでも「一夫を守らぬ女性」のことを「あたかも草鞋を履きかえる」ようであるとおもしろおかしく伝えている。
伊東は、日清戦争を経たこの時期に、真に北海道が欲している女性は、「娼妓ならざる、芸妓ならざる、白首ならざる女性にして、真正の本道殖民人の良妻となり賢母となり、良好なる家を作るべき女性」と明言している。伊東の論は、「殖民人」のための「良妻」、「賢母」であり、「家」を作る女性を北海道に大量に「輸入」することであった。国権意識高揚時の殖民論としての女性論であるといえようか。