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日本赤十字社

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 日本赤十字社(以下日赤と略す)は、前身博愛社(明治十年西南戦争に際し結社、社長佐野常民)の目的に「戦場ノ創者ヲ救フニアリ」と掲げていたごとく、日赤の活動そのものが戦争と深い関わりを持っていた。明治二十年、社名変更を行い皇室から年五〇〇〇円ずつ下付を受けるにいたると、日赤が「皇室眷護」の機関であることを明瞭に打ち出す一方、社名変更から一連の日赤の動向を当時の新聞・雑誌を通じて広く一般の人びとに喧伝するにいたった。すなわち、これは日赤にとって大規模な組織換えをはかろうとするものであった。まず、そのためには社員数増加をはかり全国組織へと発展させていく必要があった(近代日本看護史Ⅰ)。
 北海道では、二十年日赤社長佐野常民より北海道庁長官岩村通俊に入社の要請があり、同年八月道庁高等官一四人が入社し、「日赤社員」となった。しかし、当時の北海道はいまだ資力に乏しいため一般に勧誘することを見合わせ、将来時期をみて社員を募集することとし、同年十一月北海道委員部を設け事務所を北海道庁に置き、岩村通俊を委員長に嘱託した。二十二年五月各郡区長北海道委員に嘱託し、七月各郡区委員受持区域を定めた。札幌でも二十五年、札幌郡区内社員および家族三〇〇余人を集め赤十字幻灯会を開催し、赤十字幻灯の嚆矢を作った。
 二十六年四月、道内部員が一〇〇〇人に達したことから北海道委員部を改め札幌支部とし、翌五月北海道支部となった(護国之礎)。

写真-3 明治29年当時の日赤北海道支部の建物と初代委員長岩村通俊
(日赤北海道支部編『北海道の赤十字―その百年』より)