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献金・献納

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 二十六年二月十日政府は、「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告グ」の詔書を出し、軍備拡張のため内廷費毎年三〇万円ずつ六年間下付、同期間中は文武官俸給の一割を納付させて製艦費補助にあてることを命じた。これに対する国民の対応は早く、製艦費献納者が相次いだ。札幌でも、二月二十二日付の新聞に、札幌区南二条西一丁目鈴木鑑蔵が金一〇円を、妻ハヤ子が金五円を献納したいと願書を出したとある。さらに二十四日付の新聞では、札幌区北二条東三丁目谷七太郎が製艦費年金五〇円ずつ向こう六カ年間の献納願を出したとあるばかりでなく、在京の対馬嘉三郎が二〇〇円、向井嘉兵衛、同人妻甲が金一〇〇円ずつ献納すると在京中の道庁長官へ願い出たとある。こうして、日清戦争勃発の一年以上も前から、国民の献金・献納現象が開始された。
 この現象は、二十七年八月一日、日清戦争の宣戦布告が出されてからは一層顕著となった。札幌に北海義勇会(委員長対馬嘉三郎)が設立され、軍資献納金の取扱を一手に引き受けたところ、札幌区下宿業組合でも一人一円から一〇銭までの献金者が相次ぎ、金八円になったという。また札幌区有志婦人による防寒具寄付金も、多い者は三円、少ない者でも一〇銭ずつが寄せられ、寄付金者は名前が逐一新聞紙上で公表された。
 軍資金献納者は村々にもおよんだ。十一月十八日付新聞では、丘珠・苗穂・篠路の三村から金三〇円六五銭が寄せられたとあり、また二十五日付新聞では篠路・苗穂二村の、さらに十二月末には白石村の献納者名が公表された。
 二十八年に入ってからは、献納の記事が一層多くなる。献納品の内訳は、軍馬、巻煙草、傷兵治療品、防寒ツマゴ、ハンカチ、手拭、牛肉缶詰、酒・ビール、郵便はがきの類にまでおよんだ。このほか、従軍者に限り病気治療代を無料に、また入浴料を無料に、従軍者子弟の授業料無料という方法もとられた。