こうして、製麻会社は二十二年府県からの男女職工をもって操業開始し、二十三年二月の時点では職工数一五〇人に達していた。表18は三十二年までの男女職工数を新聞から拾いあげたものである。表からもわかるとおり、製麻会社は二十七・八年の日清戦争後事業をますます拡張し、三十年には職工数一三〇〇人(男工四〇〇人、女工九〇〇人)に達していた。しかも職工の内訳をみるに関西、北陸、九州方面出身者が多く、このため寄宿職工がほとんどで通勤職工はわずか三割という状況であった。これは、札幌付近や比較的近い東京・京阪地方出身者の場合約一年余で退職する者が多いため、会社側がなるべく遠国出身者を雇い入れる方針をとった結果でもあった。
表-18 北海道製麻会社男女職工数 |
年月 | 総数 | 男工 | 女工 | 備 考 |
明治23・ 2 | 約150人 | 約30人 | 約120人 | 京都、滋賀、鹿児島、福岡 |
24・10 | 250 | 鹿児島、熊本、京都 | ||
25・ 3 | 283 | 83 | 151 | |
28・10 | 720 | 石川、富山 | ||
30・12 | 1300 | 400 | 900 | 石川、富山、仙台 |
31・ 8 | (不景気につき60余人解職) | |||
31・11 | 1000 | うち通勤3割、寄宿人7割 | ||
32・ 1 | 1044 | 281 | 526 | 石川、富山、青森、仙台、広島 |
『北海道毎日新聞』(明治23~32年)より作成。 |
職工の待遇は、二十四年の時点で一日平均賃金男工二四銭、女工一六銭で、賄料一日八銭であった。工場は、麻用、亜麻用二種の機械を備え、大は帆布、麻縄用糸、小はかたびら糸、ハンカチーフ糸等を製し、特に蚊帳糸、かたびら糸の注文が多かった。ところが日清戦争後の好況に支えられて、製麻会社は事業を拡張し職工の大量募集に踏みきるとともに、二十八年十月より勤務を午前六時より午後六時までの部と午後六時より翌朝六時までの部の昼夜二交代制とした。まさに一二時間労働(うち休憩一時間)である。そればかりか会社側では以前から貯金規則を設けて賃金の一〇〇分の五を貯蓄奨励してきたが、二十九年九月に至り、職工たちの間に低賃金の上に賄料や積立金を差し引かれ、その賄いも物価高騰を理由に質の低下を招いたことから不満が生じた。このため逃亡者が相次いだり、同盟罷工の相談にまで至ったと当時の新聞は伝えている。
このような劣悪な状況におかれた職工の労働事情は、三十年四月ついに一人の女工を死に至らしめる虐待となってあらわれた。富山県出身の女工某一九歳は、繁劇の勤務のあまり健康を害し欠勤したところ、会社側では仮病として寄宿舎より追い出し穴倉の片隅に押し込めたばかりか、医薬の手当もせず夜具も与えず荒筵二枚のみで二昼夜も放置しておいた。このため、女工は死亡した。この後会社側では待遇を改めるどころか、職工の不穏な動きを未然に防止しようとする態度に出、同年には警官を寄宿舎内に随時臨検させるなど労務管理をますます厳重にした。寄宿舎生活を強いられた職工の七割は、「口入屋」と呼ばれる職業斡旋業者の甘言に乗せられ連れられてきた者が多かった。三十一年四月の新聞は、女工一日賃金一六銭、その労働は郷里の耕耨の業より難渋であること、一日の賄料一四銭(物価高騰を理由に値上げした)を差し引いたら月に手元に六〇銭しか残らないありさまで、さらに風呂代、薬代を差し引いたら郷里へ送金もできないありさまを報じた。そればかりか、収入が少ないために社外で「売淫」を兼ねる女工さえいるとまで報じた。これは生きるためにぎりぎりの状況に追い込まれた結果としかいいようがない。遠国から連れられてきた女工は、低賃金の上に昼夜二交代制の劣悪な労働条件に、逃亡しようにもできないのが実状であった。会社側も職工の足止め策として賄料の一部補助をするなど手当をしたが、米価の下落にともない賄料を男一一銭、女一〇銭まで引き下げたに過ぎなかった。
このような職工の待遇をさらに劣悪にしたのに衛生状態の悪さがあった。三十一年工場内に発生した伝染病は多くの犠牲者を出した。これは工場内の飲料水、浴場、下水および寄宿舎内の過密化(四畳に六、七人雑居)によるものが原因であった。このため、翌年会社側ではやむなく会社規程の衛生法を施行するに至っている。
日清戦争後の製麻会社の製品は、糸類のほか織物類は帆布、ズック、服地、雑布で、そのおもな販売先は陸海軍両省であった。