この時期の農家では、以上のような養蚕や亜麻栽培のほかに大小麦、蕎麦、大小豆等も栽培していた。四年の元仙台藩士片倉家従者たちの移住によって開村した白石村の場合、二十年の『函館新聞』によると、「人心協和風俗質朴なり、然れども未だ悉く固陋の旧習を脱却する能ハずして進取の気象(ママ)に乏しき(中略)村中文学あるものハ殆んと仕官せざるの勢」いで、純粋の農家はわずか数戸に過ぎない状況であった。それでもわずかに水田耕作を営むものがおり、多くて五、六町歩、少ないのは一、二町歩であった。このため副業として女は養蚕を営み、男は春雪解けとともに伐木に従事した。しかし、冬期間男はこれといった仕事もなく「炉を囲み稗史小説物」など読みふけるありさまでもあったという。
二十二、三年の豊平村外四カ村の場合、農業従事者三七七八人のうち、日雇四三五人、養蚕七人、炭焼一四二人がいることも、副業は農家にとって欠かせないものであった(豊平町史資料)。それゆえ、農家経営は三十年を過ぎても困難であったようで、三十二年の豊平・平岸・月寒村の生活調査によれば、「生活ノ程度ハ至ッテ低ク」と、上位に属するのは全体の一五パーセントに過ぎなかった(同前)。