札幌市街の電灯はその数を増して農業地域にも拡大し、馬鉄は電車に変わり、定山渓鉄道や北海道鉄道(現JR千歳線)が開通し、飛行機も飛来するようになった。小学校は六年制になり、農科大学は北海道帝国大学として独立する。デパート、ビヤホール、常設映画館などが建ち、野球、テニス、スキーが普及した。大正六年区役所の報告には「家屋ノ新増築亦尠カラス。一面区内ノ借家ハ全ク払底ノ盛況ヲ呈セルハ、明年開催セラルヘキ開道五十年紀念博覧会ノ、所謂前景気ニ因スルモノアルヘシトハ云ヘ、洵ニ喜フヘキノ現象ナリトス。而シテ諸物価ノ騰貴ハ各般ノ工事施行上並物品購入上頗ル支障ヲ来セルモ、納税成績ハ比較的良好ナリ」(札幌区事務報告 自大正五年十月至六年九月)とある。
そこに述べられた開道五十年の博覧会は、七年八月に札幌、小樽両区を会場として開催されたが、札幌の中島公園が主会場となったので、北海道としての記念行事ではあったが、近代都市に成長しつつある札幌の力量を誇示する機会となったのである。札幌区ではこれにあわせて九月一日開府五十年記念式を行い、阿部宇之八区長は次のように式辞を述べ、今後の発展に自信を覗かせた。すなわち札幌の繁栄は当局の経営の宜しきとともに「先住区民の辛苦を忍び艱難を冒し努力奮励せるの結果たらずとせんや。而かも之れ一面北海道発達の反映に他ならずして、其発達の今後益々多大なるべきと共に、札幌区の愈々繁栄に赴くべきは固より疑なき所なり」(北タイ 大7・9・2)。
こうした札幌の動向は、見方を変えれば全国規格への統合志向であり、「内国植民地」的色彩を薄めていく過程であった。その結果として、札幌は区制期を通じて道都と呼び得る地位を確立し得たといえるが、また失ったものも多かったであろう。
有島武郎は明治二十九年から札幌農学校の学生として、四十一年からはその後身である農科大学の教官として札幌に住んだが、大正十年「北海道についての印象」を書いて、札幌が失いつつあるものを惜しんだのである。
私が学生生活をしてゐた頃には、米国風な広々とした札幌の道路のここかしこに林檎園があった。そこには屹度小さな小屋があって、誰れでも五六銭を手にしてゆくと、二三人では喰ひ切れない程の林檎を、枝からもぎって籃に入れて持って来て喰べさせてくれた。白い粉の吹いたまゝな皮を衣物で押拭って、丸かじりにしたその味は忘れない。春になってそれらの園に林檎の花が一時に開くそのしみ/゛\とした感じも忘れることが出来ない。
何所となく荒涼とした粗野な自由な感じ、それは生面の人を威脅するものではあるかも知れないけれども、住み慣れたものには捨て難い蠱惑だ。あすこに住ってゐると自分といふものがはっきりして来るかに思はれる。艱難に対してのある勇気が生れ出て来る。銘々が銘々の仕事を独力でやって行くのにある促進を受ける。これは確かに北海道の住民の特異な気質となって現れてゐるやうだ。若あすこの土地に人為上にもっと自由が許されてゐたならば、北海道の移住民は日本人といふ在来の典型に或る新しい寄与をしてゐたかも知れない。欧州文明に於けるスカンディナビヤのやうな、又は北米の文明に於けるニュイングランドのやうな役目を果すことが出来てゐたかも知れない。然しそれは歴代の為政者の中央政府に阿附するやうな施設によって全く踏みにじられてしまった。而して現在の北海道は、その土地が持つ自然の特色を段々こそぎ取られて、内地の在来の形式と選む所のない生活の維持者たるに終らうとしつゝあるやうだ。あの特異な自然を活かして働かすやうな詩人的な徹視力を持つ政治家は遂にあの土地には来てくれないのだらうか。
何所となく荒涼とした粗野な自由な感じ、それは生面の人を威脅するものではあるかも知れないけれども、住み慣れたものには捨て難い蠱惑だ。あすこに住ってゐると自分といふものがはっきりして来るかに思はれる。艱難に対してのある勇気が生れ出て来る。銘々が銘々の仕事を独力でやって行くのにある促進を受ける。これは確かに北海道の住民の特異な気質となって現れてゐるやうだ。若あすこの土地に人為上にもっと自由が許されてゐたならば、北海道の移住民は日本人といふ在来の典型に或る新しい寄与をしてゐたかも知れない。欧州文明に於けるスカンディナビヤのやうな、又は北米の文明に於けるニュイングランドのやうな役目を果すことが出来てゐたかも知れない。然しそれは歴代の為政者の中央政府に阿附するやうな施設によって全く踏みにじられてしまった。而して現在の北海道は、その土地が持つ自然の特色を段々こそぎ取られて、内地の在来の形式と選む所のない生活の維持者たるに終らうとしつゝあるやうだ。あの特異な自然を活かして働かすやうな詩人的な徹視力を持つ政治家は遂にあの土地には来てくれないのだらうか。
(筑摩書房版 有島武郎全集第八巻)
札幌の人たちが得たものは何であったのか、失ったものは何か、どのような生活の構築をめざし、新たに提起された数々の問題を解決しようとしたのか、それらを社会、教育、文化、宗教の面から追究しようとしたのが本巻の第六章から一〇章である。