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井上内相の意見書

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 世論や帝国議会の動きを背景に「北海道問題の前途も亦大に局面を一変し来れり。井上内務大臣は黒田伯同道にて巡視あるべしとは、昨年来の風説なりしが、近頃に至ていよいよ実説なるか如し」(道毎日 明26・3・12)と噂されたように、井上馨内務大臣一行による北海道調査が実現するのは、二十六年七月のことである。「政務多忙の今日に当り、強て北海道を巡回するにも及ぶまじ」「彼れが経過の跡を見れば、亦た是れ尋常一様の飛脚的旅行のみ」(北海民燈六、八)との批判もあったが、「北海道巡視ノ目的ハ、北海道ニ於ケル現行ノ行政制度、既往ニ於ケル計画事業ノ興廃、将来興スベキ新事業ノ緩急順序ヲ取調ベ、以テ更革理整スル処アラントスルニアリ」(本道重要新聞記事抜萃)というように、この調査結果はのちの北海道拓殖事業に深く関わり、自治権運動に及ぼした影響は小さくない。
 七月二十七日函館に着いた井上内相一行は、三十一日札幌に来て、八月十一日までの間札幌の有志と面談、道庁での事情聴取と予算協議にあたり、札幌を基点として上川地方などの視察も行った。札幌には時を同じくして、前述の衆議院議員百万梅治(自由党)、加藤政之助(改進党)をはじめ、貴族院議長蜂須賀茂韶等多くの貴衆両院議員が顔をそろえ、財界・軍事関係者も滞在するなど、めまぐるしい動きを呈した(北海民燈六~九)。
 井上内相はこの調査結果を二十六年十一月「北海道ニ関スル意見書」としてまとめた。札幌の人たちが要求していた市町村自治について「本道地方組織ハ固ヨリ其ノ改正ヲ要スルモノ之レナキニアラス。然レトモ大体ニ於テ未タ他府県同一ノ制度ヲ画一ニ適施シ得ルノ時期ニ達セス。……仮令ヒ之ニ施スニ他府県同一ノ制度ヲ以テスルモ、啻ニ彼等カ之ヲ挙クル能ハサルノミナラス、却テ其ノ発達進歩ヲ害ス可シ」との判断を示し、次のように改正の方針を打ち出した。
 函館ノ如キ稍々完全ノ市街ヲ成シ、其負担ニ堪へ得ヘキノ地ニハ、之レニ適当スヘキ特種ノ組織ヲ設クル事
 他ノ村落ニ関シテハ、二種若クハ三種ノ組織ヲ設ケ、其ノ人口疎密及ヒ資力厚薄ノ度ニ照ラシ之ヲ適応シ、並ニ道路修繕、学校、病院其他国庫ノ補助ニ関シ、其ノ程度年限ヲ定ムル事

すなわち、北海道の集落を函館のようにやや完全な市街地の形成されているところと、その他の村落に二大別し、各々に別な地方制度を施行しようというのである。この方針は後に北海道区制と一・二級町村制として実現することになるが、井上が意見書をまとめた二十六年十一月の時点で、札幌はどちらの制度に該当すると考えられたのだろうか。同意見書は北海道の地方組織の現状について次のような見解を示している。「本道ノ中、函館ノ如キハ人口六万ヲ有シ、其他大野、亀田、江差、福山及根室、小樽等其他多少ノ稍々市街村落ヲ形成シタルモノアリト雖モ、是レ実ニ僅ニ一部分ニ過キス」とあるが、札幌の地名は見当たらない。この一文を「函館のようなところのほか、大野、亀田、江差、福山」と「根室、小樽のようなところのほか、やや市街村落をなす」という北海道における二地域の存在を述べたものと読み取れば、札幌は後者のやや市街村落をなしているところに該当しそうだ。この頃五〇〇〇戸、二万七〇〇〇人の戸口数を持った札幌を表記せずに、きわめて過小評価したのは何故だろう。それは井上内相とともに調査にあたった内務省都築馨六の議会答弁にうかがえる。彼は、目下道路や鉄道工事で大盛栄しているところも、その工事がおわれば急にさびれて寂しくなってしまうことがあるとし、当時の札幌を、そうした生産基盤が弱く将来性の不透明な市街村落とみなしていたのである(八三頁参照)。都築は井上内相と姻戚で、品川内相時に北海道の市町村制度について建言書を提出したが(北海道行政組織ニ関スル意見書 井上馨文書の内 国図)、井上内相名の意見書の中、第五地方制度の項は、都築のこの考え方が強く反映したものとなっている。
 これらの事情をふまえて、井上意見書が打ち出した二種の新地方制度をみると、札幌は函館のようなやや完全な市街の形成されているところに施行される特種の組織(のちの北海道区制)に該当するとは思えない。むしろ他の村落に施行する組織(のちの一・二級町村制)の対象地だったのではあるまいか。だからこそ政府の札幌再評価を求め、道都としての位置づけを願い、道庁の札幌存続と権限拡大さえも札幌の人たちは切望した。札幌の自治権要求運動が函館や小樽と違ったものにならざるを得なかった背景の一つとみることができる。