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施行延期

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 内務省に北海道庁の所管が移り、その長官更迭は明治三十年(一八九七)九月四日発令された。新長官安場保和が札幌に到着したのが九月十一日、翌日は日曜日だったが原保太郎前長官と事務引継をして十三日に札幌をたち、上川鉄道工事を視察後すぐに東京へ戻った。この間安場は官舎に入らず山形屋旅館に投宿、そこへ日曜の朝、新長官の抱負を聞こうと訪ねた小樽新聞社の記者は意表をつかれた。目前に迫った区制施行につき「余は一向感服せず……一先づ実施延期の勅令を発布することゝなり居れば……其期限は無期の筈なり」(小樽新聞 明30・9・14)と言い渡されたからである。公文としては内務省が九月十一日付省令第二五号として出したが、安場は札幌に来る前、すでに東京でこの件を話し合い決断済だったのである。
 区制準備を進めていた札幌の人たちは驚き戸惑い、大臣候補といわれた新長官と政府の密約説がささやかれたりしたが、施行延期の理由と安場の立場役割についてはあまり明らかでない。ただ北海道区制を改正再公布する経緯をふまえれば、函館の運動、帝国議会の議決、道庁機能の見直しが延期の基底にあるといわざるを得ない。無期延期を速報した小樽新聞は翌日の紙面で「吾人は固と区制其者の不完全を知る者なり。公民の負担を増加して、此不完全なる区制の下に薄弱なる権利を売収するは、吾人其価の不廉を断定するに躊躇せさると共に、能ふ可くんば此欠点を補ふて名実の完璧を之れ期せんこと、吾も人も熱心に希望する」と論評し、「延期後の区制は如何、必ずや多少の面目を新にする者あらん」と期待を投げかけた(9・15)。
 安場が六代目長官に就任したのは六二歳の晩年で、退官後一〇カ月で没したから、道庁が最後の職場となったといえる。彼は熊本城下に生まれ各県の県令知事を歴任、明治十七年北海道を視察し政府に開拓意見を上申したことがある。「資性英邁剛毅」(最近之札幌)「胆略あり、権門に諂はず、事を処する果断」(北海道史人名字彙)といわれ、道庁官制を改正し今日に伝わる支庁制を敷き、あわせて職制と上級職員の刷新をはかった。
 再び札幌に戻った安場は十一月十五日職員に官制改正のねらいと施政方針を演達し、「郡区行政ノ規模ハ這回ノ更革ヲ以テ稍々其面目ヲ一新セリ。自今実際ニ就テ着々郡治ノ釐革ヲ行ヒ、延テ町村行政ノ改良ニ及ホサントス。而シテ区制及町村制ハ既ニ制定公布ヲ経ルアリ。徐ロニ地方ノ状況ヲ察シ、適当ナル程度ニ於テ漸次之カ実施ヲ勉ムヘシ」(安場保和演達)と指示した。また、函館の有志茶話会で市制請願について「余は元来現行の市町村制を完全無欠とは認めず……函館に市制を施行するの件も未だ賛同を表する能はず。去りながら過般発布されたる北海道区町村制を完全と認むるには非ず。直ちに之を実施する能はざるは勿論なれど、全然廃止すべきものなりゃ、或は如何に改正するや等は今日に於て断言し得べきものにあらず」(小樽新聞 明30・12・23)と発言したと報じられている。たまたま来道した内務省北海道局長蒲生仙は函館で「内地同様の市制を施行」するよう強い要請を受けたが、区制が「殆んど無期中止の姿なれは、何時より施行となるや元より明かならず。何の途実施する事となれは多少修正を要するは勿論」といい、「予一己の意見にて如何ともする能はず。請ふ之を諒せよ」(道毎日 明30・10・28)と弁解したという。
 三十年区制延期を札幌の人たちはどのように受けとめたのだろうか。「北海道の官民共大喜びなりと云ふ。其理由の如何は知る事を得ざれど、札幌の如きに区制施行の為め甚だ迷惑を感じ居り、且つ来月一日より実施の事とて区会議員撰挙等にて、夫々競争者も出で居る際、此報に接し太く喜び居る」(小樽新聞 明30・9・22)との見方もある。しかし区制を「官民共に其施行の速ならん事を希望」(道毎日 明31・4・13)するのが大勢で、延期の要因を市制請願にあると見て函館の運動を迷惑に思い、それを安場が支持した結果であるとした。「安場長官の之を握り込んだるは本道の実情未だ詳らかならず。他事忽卒の際を以ての故なるべし」(道毎日 明31・7・1)との評もみえる。
 安場は在任一〇カ月で願い出て道庁を去るが、区制延期後の処置を後任の杉田定一長官へ次のように引き継いだ。
 区制ハ三十年十月一日ヨリ、一級町村制ハ三十一年一月一日ヨリ施行ノ期ト定メラレシカ、恰モ本官拝命ノ折柄ニシテ、赴任以来聊カ見ル所アリ。三制度トモ実施延期ヲ上申シ、三十年九月十一日内務省令第二十五号ヲ以テ延期セラレタリ。
 爾来各地民度風俗財産戸口等ノ調査ヲ遂ケ、之レカ施行ノ箇所区域ヲ定メ、即チ函館、札幌、小樽ノ三箇所ヲ以テ区制施行ノ地ト仮定シ、又一級二級町村制ノ等級ヲ廃シ単ニ町村制トナシ、施行見込地トシテハ亀田郡大野村……網走郡北見町ノ十九箇町村トシ、其他ノ町村ニ対シテハ極メテ簡易適切ナル規程ヲ設ケ、民度増進町村経済ノ発達ニ伴ヒ、漸次町村制施行区域内ニ誘ハントスルノ計画ナリ。又、現在ノ区町村制条文中ニ於テモ多少意見ヲ有スルヲ以テ、之ニ幾許ノ修正案ヲ付シ、目下内務省ニ上申中ナリ。而シテ其実施ノ期ハ去ル三十二年四月一日ヲ以テスルノ見込ナルニ依リ、現ニ諸般ノ準備ニ着手セシメツヽアリ。
(北海道庁事務引継演説書)

 これによれば安場の案は区制、町村制、簡易な規程による三本立となり、市制町村制により接近したかに思えるが、内容面で「町村長は官撰にするなど愈々官に重きを置き、大抵官六民四位の程度を以て成立てり」(道毎日 明32・1・19)ともいわれる。安場の札幌における評価はいたって厳しく、「道庁は爾来地方制度調査会なるものを設けたるのみ……禄々調査も為さず、荏苒弥久、遂に大言壮語を置土産となしたるのみ」(道毎日 明31・10・25)と、函館の好感ムードとは対照的であった。