立地論争は明治四十二年に至って意外な展開をみせ、あっけない結末を迎えた。その前年、四十一年十一月五日から始まった道会には、四十二年度北海道地方費予算案が議題として出されたが、これに道会建築費と道庁庁舎建築費が計上されたのである。本庁舎(明治十九年から三カ年かけて建築された、いわゆる赤レンガ庁舎)と付属庁舎で執務しているが、木造の付属庁舎の老朽化がすすみ、危険であるから解体し新築しようというのである。審議の結果、財源難を理由に道会建築を中止し、道庁付属庁舎の建てなおしを二年計画から三年継続事業に修正して可決した。その矢先の四十二年一月十一日、規模宏壮外観荘厳とうたわれた本庁舎が火災で焼失する事件が発生、その対応が緊急課題となり、二月一日から臨時道会が開かれることになった。
政友会札幌支部では、早くも一月十四日に現在地での再建を国費をもって行うよう決議し、政府への働きかけを始めた。一方、旭川町の有志は東京に出向き、内務省、陸軍省を回り、この際道庁を旭川へ移転させるべきだと説き、東京の新聞記者を上野精養軒に招待してこの趣旨を開陳し、道会議員には臨時道会で同趣旨を建議するよう強力な折衝を重ねた。札幌側は当初これを〝浮説〟として深刻に受け止めず、開会中の札幌区会で多少話題になった程度である。ところが、旭川側の道会議員対策が進展し、移転賛成者が過半数に迫りそうだとの情報が広まり、臨時会では法規上建議は不可とする見解を押し切り、道庁移転を強行建議しそうな勢いになって札幌側をあわてさせた。
後手に回った札幌側は、臨時道会開会日の二月一日新善光寺で移庁反対の有志大会を開き、「北海道庁の位置は、本道の行政及経済上札幌を以て最も適当なりと認む。吾人は旭川移庁論に対し絶対に反対す」る決議をし、決議実行委員三五人を選び、直ちに関係者関係機関に道庁の札幌永続立地を求める運動を始めた。翌二日決議実行委員を四一人に増強し、札幌区有志会の名をつけて常設、会計、庶務の三委員会からなる組織の拡大をはかり、同日夜札幌座で区民多数を集めて政談演説会を開いた。これに敏感に呼応したのは札幌商業会議所で、たまたま会議所議員の半数改選時であったが、その活動を中断して札幌の道庁永続立地運動に加わり、道会出席のため札幌に集まった議員に個別面談を申し込み、建議提出の取消を求め、商業会議所が札幌側運動の拠点の観を呈した。
札幌区会が表面に出ることは難しかったので、もっぱら秘密会とし、函館、小樽区会とも札幌永続の支持に傾いた。札幌区民へ運動を広げるため、祭典区毎のきめ細い対策を講じ、臨時道会を多くの区民が傍聴し、その審議を見守ることとし、花火を打上げる中、区民による道会包囲の示威的行動となった。青木区長は移庁派議員を「大局を誤らんとする者」と決めつけ、「万々一移庁派道会に於て勝を占め、遂に仮庁舎建築を否決さるゝに至らば、当局者は唯原案遂行に努むべきのみ」(北タイ 明42・2・4)と道庁に求めた。
道庁は失火原因と責任の所在を問われ、火災時に搬出した重要書類をその後焼却処分してしまうミスを起こし(のち内務省の調査を受け責任者処分)、さらに本庁舎焼失後の仮庁舎で放火事件が発生し、燻る長官不信任が再燃しかけたから、とても旭川移庁に加担する余裕などなく、当面は地方費の最小限支出により、現地での庁舎復旧にあたるしかなかった。そこで臨時道会には前年来計画中の新庁舎を設計変更して大きくし、さらに取壊し予定の付属庁舎に簡単な修理を加える予算の追加更正議案のみを提出したのである。すなわち旭川移庁反対、札幌永続支持の態度表明であった。
道会議員との交渉は裏面で激しく続けられた。道会内部は松月組と丸新組の対立構図であったが、松月組は道政調査会と名をつけ道会主流派を形成していた。しかし道庁移庁論では意見をまとめることができず、各議員の自由な対応に委ねることにしたため、大勢を占めたかに見えた移転推進派はにわかにその数を減じ、移庁建議の提出をあきらめ、道庁の予算案に賛成する立場に変わった。これにより旧来の松月組は「議員の多数を包容して道会の大勢を支配し来りしが、今回端なくも旭川有志の提唱せる移転問題に内訌を生じ(中略)到底調停の効無きを覚り、尋で幹事の総辞職となり、道会開会中、二月四日遂に任意解散する」(今里準太郎 北海道会史)に至った。かくして二月五日道庁提案の予算案が可決され臨時道会は閉会した。
この議事筆記録、議案七号調査委員会議事録のいずれにも、旭川移庁、札幌永続の文言は全くない。しかし実質的にはこの出来事により長年の道庁立地論争は決着し、札幌区での永続方針が定まったのである。道庁本庁焼失から臨時道会に至るこの動きを、後に今里は「大山鳴動して一匹の鼠すら出でず」(同前)と評したが、札幌区にとっては大きな意味を持った。青木区長と区民有志は、臨時道会が閉会した二月五日夜、道会議員、道庁参与員、新聞記者七〇人を料亭幾代に招待し、「道庁火災以来道庁当局者は非常なる骨折、亦道会議員諸君は之れが為め厳寒の候遠路出札せられ罹災応急施設費は最も熱心御調査の上之を可決せられ、且新聞記者諸君は災後詳細の報道に怠りなく」(北タイ 明42・2・7)つとめられたことに感謝し、盛宴を催したのである。なお、札幌有志会はその後も商業会議所に事務所を置いて規約を定め、しばらくの間論争再発を防ぐ気配りを続けた。