明治二十六年二月刊行の『札幌区実地明細絵図』(以下実地明細絵図と略、北大図、道図などに所蔵)は、札幌市街の地図に区内の主な一〇五の家屋の外観図を添えたものである。類似の図集の二十年四月刊行の『札幌繁栄図録』(以下繁栄図録と略)と比較すると、描写表現が稚拙で写実性にも疑問がある。しかし収録家屋数が多く、開拓使廃止のほぼ一〇年後の時点の製作である点に意義がある。局部的な写真や絵葉書からは得られない、広範囲の家屋の様相の情報を提供する。その点『繁栄図録』よりも資料価値が高い。ただ、刊行の年の前年の二十五年五月、札幌市街は八八七戸を焼失する大火に見舞われている。この『実地明細絵図』は大火後の様相と受け取ってよいと考えるが、若干疑問はある。留意を要する点である。
①『実地明細絵図』でまず注目されるのは、石造建築が意外に多いことである。この絵図を数量的に扱うことの問題を棚上げすると、同図が掲げる一〇五の家屋のうち、五〇の家屋に石造建物がある。棟数で六七を数える。一方土蔵と判断される棟数は一九棟にすぎない。石造は平屋建の倉庫が多いが二階建もある。石造店舗、石造工場も十指にのぼる。前掲の『繁栄図録』が示す倉庫は土蔵が主である。両図の年代の間に急に石造が増えたことを示している。また『実地明細絵図』の石造建築は厚みのある石材を積む純石造で、木造骨組の外側に薄手の石材を積む木骨石張造ではないように判断される。ほぼ同時代から建て始まる小樽港の石造倉庫は、後者の木骨石張造が主である。札幌と小樽では別種の構造法を選択したと解される。
②レンガ造は、別項で述べる北海道庁庁舎、北海道製麻工場、札幌麦酒工場を除くと一店舗しか見当たらない。石造と比べ少ないのは不審であるが、理由を推測すると、レンガ造は石造よりも施工が複雑で建築費が割高につき、工期が長くなることが敬遠されたのであろう。
③『実地明細絵図』の石造建築の屋根は瓦葺であることが注目される。白石村・豊平村で製造の瓦を使用したものであろう。しかし木造建築の屋根の瓦葺は少なく、柾葺(手割の厚柾〔こけら〕)が主である。明治三十年代中頃から始まる亜鉛鉄板葺の屋根の前の姿を示している。
④屋根の形式は切妻造が約六割五分を占め、道外で主流の入母屋造、寄棟造は少数である。次に述べる外壁下見張、窓形式と並んで、開拓使の洋風建築の影響と考えられる。
⑤木造建築の外壁は洋風下見張が圧倒的に多い。これに対し、和風の押縁下見張は一例しか見当たらない。札幌の町屋建築の外形に顕著にみられるようになる「日本建築形式離れ」の傾向がこの時代から現れるのである。
⑥一〇五家屋の三割以上の建物に上げ下げ窓を用いている。和風の窓と併用する建物もあるが、横長の和風窓から縦長の洋風窓へ移行しつつあることがうかがわれる。紙障子が消滅し、板ガラス(当時輸入品)を使用する建具の増加を物語る。板ガラスの寒地適正が認められてきたことを示すものでもあろう。わが国の都市、特に東北、北陸の都市にはみられない先進的な札幌の建築風景である。札幌市街の建築は全体として、少なくとも外形については洋風化を進めつつあったのである。
⑦店舗の数例と料亭に石造のストーブ煙突を設けている。町屋へのストーブの普及はいま少し後年であったらしいことを図は示す。まだ火鉢の時代であったようである。