琴似、発寒の両部落は明治九年頃岩城、岩手、青森等の移民を以て兵村を組織し今日に至るが、篠路、新琴似の部落は明治二五、六年頃より九州、関西の移住民を以て今日に至り、其間人情・風俗等の相違より兎角円満を欠き、一村の発展に障害を及ぼすこと少なからず……
ここには同じ屯田兵村であっても、入植時期と出身地による「人情・風俗の相違」が非和解的なものであり、「一村の発展に障害を及ぼす」とされている。この問題の背景には村役場の位置をめぐる問題もあった。すなわち当時の所在地は現在の琴似二条七丁目(現西区役所所在地)にあり、村の南端に偏した位置となっており、新琴似、篠路兵村からはあまりにも遠距離となっていたのである。三十九年の二級町村制の施行の際に、役場位置については将来協議することとされ、四十五年四月にいたり、札幌支庁から八軒の位置指定がなされた。ところが新琴似、篠路兵村側ではこれを不満とし、分村運動が開始されたのである。この運動と問題は後年まで尾を引くことになった。
大正五年に村役場の位置を移転することにより解決がはかられたが決裂し、再び分村問題へと発展していった。そして村議会でも五月十五日に全会一致で分村──新琴似村の設置を議決し、札幌支庁でも「其必要を認め意見開申する処あり」とされていたが(北タイ 大6・7・12)、大正八年頃の民力涵養運動などを通して村内の融和がはかられるようになり、九年に八軒に移転・新築することで解決をみた。新役場は工費約一万五〇〇〇円をかけ、九月二十五日に移庁式が挙行された。場所は現在の八軒一条西一丁目(現西区八軒会館所在地)である。