篠路兵村の農産物は、陸軍糧秣廠派出所が置かれていたこともあって、当初は燕麦、秣などの飼料であったが、やがて麦・豆類が中心となり、大根も特産品であった。しかし兵村の復興と安定した農業経営をめざして水稲が志向され、四十三年に八〇〇町歩にわたる水田開発設計をたてられた。その計画の背景につき以下のように報道されている(北タイ 明43・6・10)。
去る三十一年の洪水以来年々融雪季浸水の害を被り、畑作の多くは見込なく、逐年他へ移住するものあり。此侭打ち捨て置きては遂に全村挙げて滅亡するの悲運に陥る所より、今回部落有志協議の上水田開鑿に依りて其の難を救はんことに決し、部落有財産の内七百金を村費内に寄付し潅漑溝測量計画を為し、其の結果果して水田開墾の有望なるを認める時は更に土功組合を組織せんとて、今回同村長より寄附の認可を支庁へ申請したり。
このようにこの計画は兵村の「滅亡するの悲運」を救済するもので、兵村挙げての取組みであったのである。大正二年に土功組合を設立するに至り、潅漑溝工事は四年五月三日に認可となって開始され、五年七月十一日に完成した。その後引き続き分派線工事が施工され、六年十二月十四日に竣工をみ、約七〇〇町歩の美田が造られた(篠路兵村の礎)。この結果、篠路兵村は一大米産地となったのである。
これらの工費は多くが兵村公有地の売却費でまかなわれた。すなわち、藻岩村白川は総反別四四一町(墾成畑地一七三町五反、山林原野一六七町五反)で小作在住戸数は三八戸、豊平町厚別は三カ所に分かれ合計すると二六九町二反(墾成田一九町一反、墾成畑地九〇町七反、山林原野九五町一反、原野六四町二反)で小作在住戸数は四六戸であった(畝以下の単位は省略、北タイ 大6・9・22)。
大正八年七月十五日に開村三〇年記念式が挙行された。この時には戸数も一〇〇戸に回復し、「米作期待」や石狩川治水工事の進捗などもあって、「滅亡」の危機から脱し逆に「当村は将来益々望を嘱すべき地」とされることになったただけに(小樽新聞 大8・7・18)、盛大な記念祭が繰り広げられた。