大字平岸村字白井川御料地にある豊羽鉱山は、大正四年三月から大手の久原鉱業会社が本格的な操業の準備に入り、翌五年三月より純度の高い良質な金・銀の採掘に着手された。当時は第一次世界大戦中であり、折からの好景気と需要に支えられて、豊羽鉱山は急ピッチで採掘が拡大されていった。その結果、山間の白井川流域の水松の沢(おんこのさわ)と元山の二カ所に、合わせて二〇〇〇人を超える繁華な鉱山町が突如として出現することになったのである。
豊羽鉱山には五年八月には坑夫六五〇人、工事夫四〇〇人、家族を合わせると約一三〇〇人がすでに居住していたという(北タイ 大4・8・20)。さらに六年七月には坑夫八〇〇人、家族その他の人口は一五〇〇人といわれ(北タイ 大6・7・4)、市街は事務所のあった水松の沢(神居)と元山の二カ所に分かれていたが、五年の主な鉱業・公共施設には以下のようなものがあった。事務所一、製錬事務所一、倉庫事務所二、分析事務所一、採鑛事務所二、鉄工場一、撰鑛所二、製錬所一、発電所一、分析室一、製材所一、物品供給所二、鉄索停留所四、合宿所二、共同浴室二、請願巡査駐在所二、消防器具置場一、学校二、長屋二五、医療所二(殖民公報 第九三号)。
また「同地は新開地なるか故に起業前迄は人煙なかりしか、創業以来戸口激増し現下百二十余戸の聚落を形成し菓子屋、洗濯屋、呉服屋、荒物雑貨店、豆腐屋、理髪屋、時計店等の商店点在して殷賑を呈せり」といわれている。ここには鉱業施設のほかに公共的・商業施設も一通りそろっており、「殷賑を呈」した鉱山町へと発展をしていったのである。
豊羽鉱山のめざましい発展ぶりは、『北海タイムス』に掲載された「豊羽鉱山の祭典」(大6・7・19、20)、「豊羽銀山探検記」(大6・7・22~28)でもよくうかがうことができる。後者によれば、水松の沢には建物として事務所、倉庫、製錬所、発電所、木工場、鉄工所、製材所などの鉱山施設、病院、合宿所、測候所、役宅一三戸、坑夫長屋一五〇戸、請願巡査部長派出所、郵便局、小学校などがあり、「豊羽村と云ふべき状態」であったという。元山には事務所、合宿所、飯場二軒、役宅八戸、坑夫長屋約三〇〇戸、小学校、病院、請願巡査派出所などがあった。従業員は採鉱夫一四七人、雑夫一三五人(元山)、製錬手一八八人、雑夫二九三人(神居)、女雑夫二三人、合計七八六人であった。就業人員については、七年六月末では役員五二人、職頭小頭一六人、鉱夫一般七五〇人で合計八一八人、家族が約一五〇〇人とされている(北タイ 大7・8・17)。従業員は、札幌市域では帝国製麻工場の約一〇〇〇人に次ぐ人数となっており、当時としてはいかに大規模なものであったかが分かる。
豊羽鉱山の発展の恩恵を受け、鉱山景気に湧いて栄えたのが定山渓温泉であった。定山渓温泉は豊羽鉱山の社交場、娯楽場の役割をになっていたといえる。その一方では、製錬による煙害も深刻化していた。大正八年の御料林の被害状況は、激害地(樹木が全部枯死)が約三五〇町歩、中害地が約七〇〇町歩、微害地が約一二〇〇町歩にも及んでいた。被害樹木は針葉樹約一二万石、濶葉樹約一五万石、総額は約一〇万円に達していた(北タイ 大8・6・21)。
大戦景気で事業を伸ばした豊羽鉱山も反動の戦後不況で規模が縮小され、大正十年三月にはついに休山に追い込まれた。再び豊羽鉱山が開かれ、鉱山町が再現されるのは昭和十二年である。