ビューア該当ページ

製綿・メリヤス・製綱の勃興

219 ~ 220 / 915ページ
 このほか、札幌の繊維工業としては製綿、メリヤス、製綱がある。まず、製綿は明治四十三年五月木下製綿工場、四十四年十一月駒野製綿工場、大正六年四月上野製綿工場が設立されている。原料の中国綿は神戸から小樽を経て移入され、製品は夜具綿、判綿などであった(札幌市郷土研究部 郷土教育札幌市経済資料 一 昭11)。しかし内地産の綿製品との競合もあり、この時期は製造業というよりも卸小売業との兼業が一般的だったようである。大正五年刊の『札幌便覧商工案内』には「綿商」として長沢商店(綿類布団製造販売並に古綿打直し、南三西四)、池商店(綿布団製造卸小売、南二西四)、中根販売部(綿打機械製造綿類卸小売、南二西四)、中根製綿工場(南二西四)、中田商店(綿布団販売並に綿打直し、南一西八)、駒野製綿所(製綿卸、北三東一)、八田相之吉(綿各種布団類、南一西七)、河村支店(綿類布団商製造、南二西一)、その他八件が掲載されているのである。
 メリヤス業のこの時期の担い手はほとんど職工五人未満の家内工業であり、製品は主に軍手である。大正二年五月に加藤手袋工場が北七条東七丁目に設立されたが、実態はよくわからない(郷土教育札幌市経済資料 一)。大正六年の製造戸数は四戸、職工数一一人、生産品目は綿メリヤスの手袋三四八〇打(四一七六円)、靴下九六〇打(二五九二円)、その他合わせて七四九五円であった(札幌区役所『統計報告』綴)。
 製綱業は、麻を原料として漁網、ロープを製造するものである。明治二十年十一月創立の札幌製綱所工場(千葉養次郎)が北一条東三丁目にあり、亜麻網、綿糸網、畳糸、網糸を製造していた。大正六年七月には札幌製綱株式会社が資本金一〇万円で設立され、専務取締役は村上道太郎、取締役は石井熊次郎島津千代松であった(北タイ 大7・1・15)。しかしこの後は不明で、翌七年六月には道庁の指導により北海道製綱株式会社が設立された。これは、日本製麻の上田市治郎経理部長、川島勝治支店長、大瀧甚太郎久保兵太郎らを発起人とし設立準備を行った(北タイ 大7・4・23)。資本金は、島口福蔵二〇〇〇株、札幌商業会議所関係者一五〇〇株、日本製麻関係者一三〇〇株、一般公募五〇〇株となり、予定の四〇〇〇株を超過した(北タイ 大7・4・28)。その後公募の好調を理由に資本金を二〇万円から三〇万円に引き上げ、公募株式を二五〇〇株とした(北タイ 大7・5・9)。日本製麻の資本に一部依存したものの、札幌区内の資本蓄積がここまで成長していたことは注目に値する。大正十年十二月の株主は一〇六人六〇〇〇株であったが、そのうち札幌区内株主は五一人三九一〇株(六五・二パーセント)、札幌を含む北海道内株主は九八人五六九〇株(九四・八パーセント)であった。北海道製綱は、札幌区豊平町の定山渓鉄道沿線に設立され、張打工場、機械工場、麻梳工場、亜麻工場からなっていた(北海道製綱株式会社 第七回営業報告書 大正十年自七月至十二月)。
 このように、札幌区の繊維産業は、生糸・絹織物・綿織物を中心として産地化する内地のそれとは異なり、製麻を軸としながらそこから派生した製綱、家内工業としてのメリヤス、卸小売業兼業の製綿という形態で発達したのであった。