図-1 豊羽鉱山 大正6年測図五万分の一地形図札幌十五号「定山渓」(部分)より。
ところで、丹羽定吉は大正二年二月に久原鉱業に入社している(以下の記述は豊羽鉱山30年史による)。丹羽はこの時期、北海道において盛んに買山をすすめていた久原鉱業から豊羽鉱山に派遣されたのである。大正二年末に、丹羽は自ら採鉱したのではなく「幌別鉱山員ノ調査」に基づき「北海道札幌郡豊平鉱山調査報告書」を本社に提出しているが、そのなかで「鉱石ハ石英又ハ炭酸満俺鉱(マンガンこう)中ニ硫化鉄、硫化銀、及方鉛鉱等ヲ混在シ其結晶甚ダ緻密ナリ」、鉱脉(こうみゃく)は甲、乙の二条あり、甲は「上記諸鉱物ノ緻密ナル硫化物ヲ含ミ、含銀量極メテ好良ナリ」として、買山をすすめている。したがって、丹羽の手に渡った大正三年九月には、実質的に久原鉱業の所有になったとみなしてよいであろう。
本格的な採鉱が開始されたのは大正五年三月であった。この当時、鉱区面積八五万四〇坪、稼動鉱脈は長門樋、備前樋、播磨樋、河内樋、大和樋、越後樋、三河樋、相模樋、武蔵樋の九条であった。産出したのは主に銀である。採鉱法は、坑道法により上下五〇尺ないし七〇尺ごとに坑道を設け、それを坑井または竪坑でもって連結していた。一カ年あたり九六〇万貫の産出が予想されており、鉱夫総数四四〇~四五〇人であった。設備としては事務所、製煉事務所、倉庫事務所、分析事務所、採鉱事務所、鉄工場、撰鉱所、製煉所、発電所、分析室、製材所、物品供給所、鉄索停留所、合宿所、共同浴室、請願巡査駐在所、消防器具置場、学校、鉱夫長屋、医療所があった。鉱夫には長屋を無料で提供し、生活物資は物品供給所が札幌と同値で販売した。鉱山の開業に伴い商業人口も増え、菓子屋、洗濯屋、呉服屋、荒物雑貨屋、豆腐屋、理髪屋、時計屋など一二〇戸が集落を構成していたという(豊羽鉱山概況)。
大正六年七月に北海タイムス記者が豊羽鉱山を訪ねている。定山渓佐藤温泉に一泊した記者は朝、鉱山の荷物運搬用トロッコに乗り出発し、約四〇分で水松の沢(おんこのさわ)に到着した。水松の沢は神居(かもい)とも呼ばれ、鉱山事務所、倉庫、製煉所、発電所、木工場、鉄工場、製材所、病院、合宿測候所、役宅一三戸、鉱夫長屋約一五〇戸、請願巡査部長派出所、郵便局、小学校があり、一市街地を形成している。産出した粗鉱の製煉はここで行っているのである。記者は豊羽鉱山に着任したばかりの林学士福山伍郎の案内で、さらに上流の元山へ約二時間かけて到着した。この間の道路は荷車も通る広いものであった。元山には事務所、小学校、病院、合宿所、役宅八戸、飯場二軒、鉱夫長屋約三〇〇戸などがあった。二つの小学校にはそれぞれ一〇〇人以上の児童と三人ずつの職員がいたという。
元山で記者は長尾正五郎所長、三毛菊次郎採鉱係長に迎えられ、説明を聞くことになる。このときの職員層はこれらのほか製煉係長服部基、庶務係長杉山道香、法学士神谷春雄、西山倉庫主任など約四〇人であった。これに対して鉱夫など従業員は、元山に採鉱夫一四七人、雑夫一三五人、神居に製煉手一八八人、雑夫二九三人がいた。
元山で採掘された硫化鉱、赤酸化鉱はいったん元山の鉱舎に貯蔵し、鉄索によって神居の製煉所に送られるのである。製煉所では、鉱石を溶鉱炉で溶解して、所要金属の品位を上昇させる乾式製煉法により製煉を行っていた(北タイ 大6・7・24)。表13に産出、販売高を掲げた。産出は金銀銅鉛を含めたものである。初年度の産出量がもっとも多く、どちらかといえば減少傾向が見られる。なお新聞記事によると、金産額は大正五年度三貫六九八匁、六年度一〇貫三五六匁、銀産額は五年度二〇〇三貫四九〇匁、六年度五五〇七貫五〇七匁であった(北タイ 大7・8・17)。
表-13 豊羽鉱山の概況 |
算出高 | 販売高 | |||
数量(貫) | 価額(円) | 数量(貫) | 価額(円) | |
大 4 | 1,080,729 | - | - | - |
5 | 225,466 | 266,050 | 163,373 | 192,963 |
6 | 663,875 | 1,135,226 | 582,715 | 1,001,106 |
7 | 30,300 | - | - | - |
8 | 486,398 | - | - | - |
9 | 329,084 | - | - | - |
10 | 50,965 | - | - | - |
1.大8~10年の算出高単位は斤。 2.大4~6年は『北海道庁統計書』,7~10年は農商務省鉱山局『本邦鉱業ノ趨勢』(各年度)より作成。 |
久原鉱業の手により急速に開発がすすんだ豊羽鉱山だが、第一次世界大戦後の戦後恐慌による打撃から、大正十年三月休山を余儀なくされた(豊羽鉱山30年史)。操業開始から休山までの生産高累計は、採掘精鉱一六万五八四二トン、鈹(かわ)三五一五トン、粗銅八二四トン、粗鉛五一トンであり、これらのなかの金属含有量は金二七五キログラム、銀一二一トン、銅一六六五トン、鉛四九トンであった(日本鉱業株式会社五十年史)。